『トゥルー・グリット』 傑作になりえたかもしれない佳作。

 と、厭味ったらしい副題にしたものの、これに関しては、私の個人的違和感(=ビミョー)を除けば、以下の方のご意見にすべて賛同できる。そして、この映画はどなたにでもお勧めできるウェルメイドな作品である
 ともかく、コーエン作品をどなたにでもお薦めできるのは初めての快挙ではないだろうか。それだけは、ある意味でめでたい。

許されざる者たち「トゥルー・グリット」(web-tonbori堂)
『トゥルー・グリット』(2010 米)(映画の心理プロファイル)
twitter映画感想 vol.3 『トゥルー・グリッド』(愛すべき映画たち)

 で、以下は私が感じ続けたビミョーさについて。最初は、旧作を見返してと思ったが、そうするとあっちの印象に引き摺られそうなので、もうそうしないで書くことにしました。
 それで、けなしてるつもりはないが、けなしているのだろうか? ……だもんで、「好きな映画のこと、ちょっとでも悪く言わないで!」とおっしゃる方は、絶対にこの先を読まないでね。

 ツヅク



 まず、コーエンがリメイクを撮る理由がどうしてもわからない。
 確かに、旧作は原作を忠実に映画化したものとは言えず、明らかにジョン・ウェインを頂いたスターシステムによる映画であった。ジョン・ウェインの痺れるようなかっこよさは別にしても、些か評価が甘すぎるところがある。
 で、コーエンは原作に忠実に撮りたかったと。それは結構なんだが、そうするのに、わざわざ従来のコーエン兄弟とは違うタッチで撮る必要がわからない。賞なら取ったじゃん、もう。原作の雰囲気を殺したくないってのなら、二人がプロデュースして若手に撮らせた方がずっとすっきりするのになと。
 そりゃコーエン兄弟らしさはあちこちに出ている。特に風景の、寒々しくなる寸前で止めた静謐な美しさとかね(私はラストの星空より、そんなさりげない随所のショットにらしさを感じた)。そいで別に、彼ららしいブラックさが出ていないことが不満なんじゃない。
 ただ、たとえばデヴィッド・リンチは『ストレート・ストーリー』でフツーの映画撮れるじゃんと言われ、普段、リンチの作品など間違ってもご覧にならない方々にもご好評を得たが、それでも彼のファンにしてみれば、あれは間違いなくリンチ作品だ。しかも、彼のフィルモグラフィの中でも上位に入ると思う。温かい作品の中にも、リンチの個性というのが脈々と息づいてて、こっちは嬉しくなってくる。(大体、ネタが暗かろうが明るかろうが不条理だろうがグロだろうが、リンチ自身はどこまでもネアカのバカである
 まあ、それができるのがリンチが天才たる所以と言えばそれまでなんだけど、ご兄弟にもそういうことちょっこっとでも期待してたのね。でも、ラストの展開、あれは頭で考えた予測計算が見え見えで、実はちびーっと興ざめた。(ごめんなさい! って誰に謝ってるんだがw
 原作に忠実というよりは、「ま、こういうとこで俺たちらしさっての?」というお利口加減というか。いえ、あのご兄弟って良くも悪くも賢らしいから、とても、らしい、とも言えるか(爆)。(これが○ィ○○○ーとなると、悪い意味で小賢しいとなるw
 
 んで、次に、これが一番肝心なんだが、結局、私はどうもあの子の描き方が今ひとーつもやもやーっとしていた。そこんとこがビミョーの最大の理由だったようで、それが何だったのか、昨日寝る前にわかった。
 つまり「男の目で見た少女の視線」なんだよな、アレは。そこんとこがわかんなくて、tonboriさんとこのコメントでは「評価」って書いちゃったけど、そうじゃなくて、あれは「少女の内面を伴った視線」じゃなかったんだ。私には、そう見えた。
 ここんとこは非常に書くのが難しい。私は「女ならではの」とか言われるとげっと思う方だし、そういう風に決めつけられるの大嫌いだし、またもって私が自分自身、親の教育のせいで相当ジェンダーが曖昧なわけだしさw。マティ同様、「長男教育」を受けた女だったりするから。
 
 そんな風にうまく言えないんだが、ざっと批評見て回ってみると、あの子は「男の目から見てOKな子」だよね。つまり、男が「怖がらないでいい女の子」。
 それは彼女の「性」が封印されているからでさ。
 いや、コーエン兄弟流のいびつな愛とか、一応表向きは描写してるけど、そこんとこ周到に、つかとても優等生的にピューリタン的に処理されてる。別にセックス匂わせろとか、あの子に「女」を感じさせろとか言ってるんじゃないの(それはフランス映画の伝統的必殺技。あの「人間なんか描いたことのない」リュック・ベッソンでさえできるという凄さ)。ただ、彼女の芝居はすごくうまいんだけど、うまいだけに「男の世界を邪魔しない、とてもいい子」の枠のなかにすっぽりおさまっちゃってる。
 んで、そういう描き方したこと自体に、また計算が見えて、ああ、コーエン兄弟、できねえことは逃げたなという生温い苦笑が。でも、ここまで中央に据えておいて、できねえならするなよぁとか、つい言いたくなるの。
 だから、あれは男の映画なの、女なんか要らねえの! と言われるなら、その通りなんだけど、だったら、なんで「マティの物語」を前に出したのか。

 それは女の目から見て? と言われるとホントに困るし、そういう話じゃないのね。
 ただ、「少女」描くってのは、実は、「女」より難しい。思春期の女の子と「性」という問題は、自分が数年前にガチでやって相当しんどかった覚えがあるだけに、まあ、たいへんですわ。何せ、たいがいの小娘は男の子と違って全然、そんなこと認識してないもん。自分の体の中で蠢く何かがあるなんてさ。
 でも、あるんですよ。それが思春期の女の子が時としてみせる「イミフで継続する不機嫌」「突拍子のない行動」なわけですわ。ぶっちゃけ、マティの復讐行自体が、思春期的行動とだって言えるわけで。
 それは何も(フランスの映画みたく)丹念に描かなくていいのな、なんか一つでいい、フックがあればいい。そのフックからがーっと彼女の「少女としての内面」が見えるという。それはどういうとこなんだ、ってすぐに言えれば苦労しない。
「男がホントに大好きな女(少女)」描かせたら天下一品の宮崎駿はまた、そこんとこがあざといくらいうまいね(爆)。まあ、あの人は「線」でそれ出せるから。
 
 たとえば、あの「タバコをまいてやる」シークエンスなんか、そういう強烈なフックになりえた場面だよね。そういうフックを作ることは可能だったと思う。でも、なんかなあ、いいんだけど物足りない。彼女の目つき一つ、指の動かし方一つ、お下げ振りやる仕草一つでいいんだけどなあ。
 後、そうだなあ、彼女の視線の先をどう撮るかでもいいわけ。彼女がそのとき、「何を」観ていたか。そこをちゃんと計算して撮っておけば、彼女の「内面の変化」というのは如実に出てくるわけで。
 そこでやはり、観てる客を、一度は、どきっ、とさせないとさ。でないと思春期の女の子使う意味はない。

 そりゃあ、あの馬乗って川渡る場面とかいいですよ。美しいですよ。でも、あれは少年でやったって「美しい場面」です。それを女の子がやるからいいでしょ、ってのじゃあ、ぬるい。
 ぶっちゃけ、あのキャラは、私にとっても好みだし、魅力的なんだけど、あのさあ、『ガラスの仮面』の姫川亜弓さんの芝居って感じなの。マヤの芝居じゃないw。「いわゆるこういう子」って芝居で、そりゃあうまいんだけど、こっちの心をずかっと掴んで来ないのね。
 で、この物語を傑作にするには、姫川亜弓じゃなくて北島マヤ的芝居が必要だったと思うのさ。
 つまり、その物語の中心に据えられたマティの描き方が、とても無難で、深掘りに欠けてた。だから、私は話に素直に乗れなかったと。
 
 確かに、それは受けが引き出してやれなかったってとこもあるんだけどさ。
 とはいえ、相手役のジェフ・ブリッジスにしても、彼女の芝居がそういう風に「優等生」なんで、彼としても受けようがないと思われ。どっちの側にしても相当高難度の芝居なんでコーエン兄弟がきっちし指導しないと無理だろうし、おそらく面倒だか自信がないんだかで、するつもりがなかっただろうし。
 
 そりゃあそうだな、下手にやれば物語世界が崩れるもん。
 んで、それしないのは監督の判断だから、一向に構わない。構わないけど、この話でその危険な橋を渡る気がないんだったら、最初っからそんな設定使うなよとも思う。
 彼女の物語にしようと思ったなら、彼女の内面にアプローチすることは避けて通れない話でね。「この少女なら」ここで何を観るか、何を手に取るか、どういう行動に出るか。それは「いわゆるこういう少女は」でなく「マティは」でないとさ。そういった彼女の内面を作り手がしっかり把握してないと、実は、「傍観者」としての彼女だって、ほんとんとこは立ってないんだわ。

 で、それが何かと話題のエンディングについてもつながる話で。
 そのあたりは、実は旧作の方が、手練れの分、おとぎ話処理でもっとうまくごまかしてたと思う。それはハッピーエンドにするしないという問題でもないし。

 実際、今回の終わりは、あれはあれで私にはハッピーエンドだよ。厳しくもなんともない。
 大体、女が独り身で(片腕で)ってだけで、なんで苦い終わりで、なんでアンハッピーなるんだろ。だって、人生で一度でも、「誰かと強烈に結びついた経験がある」なら、十分リア充な人生。勝ち組ですよ。ああ、そうだな、そこんとこもご兄弟なあw。描くなら、そこをきちんと描くべきだったなあと。
 
 原作がどうであるか、私は知らない。だから、原作に忠実であるかどうかも、実は興味はない。
 私が原作のファンであるなら、そりゃ話は違うけどね。前に書いたように「金払ってみることを期待されてる観客」として言う権利がありますからw。けど、これも前に書いたけど、見事にさえ裏切ってくれりゃ、別になんの文句もないと思う。それが本読みであり映画好きである私のポリシーだし。
 
 もし、コーエン兄弟が今、撮る意味というのがあるならば、むしろ、この二人は全然、不幸でもなんでもなかったんだということをもっと明確に、誰でもはっきりわかるように描いた方が、その意味が出た気がする。あの程度で自分らしさを出した気でいるなら、やっぱなあ……とかつい。
 だって、この二人は幸福だったんだから。
 しつこいようだけど、西部劇だから色恋沙汰なんかいいってわけじゃないのね。その色恋沙汰がその映画に必要ならばちゃんと描けばいい。不必要ならやめればいい。そんだけのこと。だって、ジョン・フォードの「愛しのクレメンタイン」は見事な西部劇であり、同時に見事な恋愛映画じゃないですか。
 それが歪んでようが潜行したもんだろうが、やはり、西部劇というフォーマットとは別のレベルで、これは勇気の物語であると同時に、愛の物語でもあるんだから。んで、恋だの愛だのってのは、そういうもんだからさ。

 ほんで、実際んとこ、今までくだくだ書いた彼女の「内面の視線」さえ描けてれば、あのままの演出でも十分にそうなった筈だと思う。それができていたら、私は迷わずこの映画に傑作認定を与えましたね。私が与えたからってどうってことないけどw。
 それが描けたならば、私にとって、この映画を2010年にコーエン兄弟が出した意味はあったと思う。それはあくまでも、私にとって、ですが。

 ……まあ、あくまでも私にとっての話ですから。
 言い換えるなら、私が言ったようなことを一切しなかったから、つまり、要らざる冒険を避けたからこそ、この作品はウェルメイドにとてもよくまとまったとも言える。それは大人としては正しい判断だったとも言えるのね。そこんとこ、ご理解いただければ嬉しいです。
 ただ、私としては、この映画、「私にとっても」傑作になったかもなーという気がするだけに、まあこうしてあーだこーだ言うわけですよ。うん、ぶっちゃけ、惜しいなあと。

 
追記:その後、シネフィル・イマジカでヘレン・ボナム・カーターがオフィリアやってるの観まして(ゼフィレリ監督の『ハムレット』'90)。ああ、この年頃の時の彼女にマティやらせたいっ! と絶叫しました、わたくし。(23歳くらいの筈だが、小柄で童顔なのもあってせいぜい15、6にしか見えん。時として13、4にも見える)
 ピーター・ブルック以来のRSCの演技方針がそうだったのか(こないだ観た他の人の舞台でもそうだった)、かなり強気なオフィリアなんすが、一瞬の眼差しの中に、何かが稲妻のように光って消えるのね。あれよ、あれ。あれが欲しかったんだよー!

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by acoyo | 2011-04-23 00:39 | 映画・ドラマ | Trackback | Comments(8)
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Commented by tonbori-dr at 2011-04-23 23:55
ふむう。なるほどよく分かりました。
それは違うといわれっちゃうかもですが、ヘレナ・ボナム・カーターの稲妻のような眼差しっていうのはある種の狂気にもにた煌きなのかもなとか思ったんですが。
あとこの作品、結構賛否両論でコーエン兄弟マニアほどちょっとダメ出し多いのかと思ってましたけど、そういう理由ではないのかもとかいろいろ参考になったっす。
Commented by micchii at 2011-04-24 15:28 x
思いっきり謝られてる気がしますが、たぶん気のせいでしょう(爆)
ふむふむ、う~ん、ふむふむ、と読み進めていましたら、「『ガラスの仮面』の姫川亜弓さんの芝居」で全てがストンと落ちたという(爆)こういう時に比喩の力は素晴らしい。この比喩にはぐうの音も出ません。

ラストは、良い意味でも悪い意味でも「原作そのまんま」で、「原作に忠実に」という姿勢でいくなら、ああするしかなかったかなと。
そして、tonboriさんがおっしゃってましたが、【「許されざる者」を経た西部劇】、いまさらおとぎ話は撮れないですし、「忠実」というある意味「逃げ」でいくしかなかったかなと。
「忠実」でさらに「突き抜ける」というのは、「天才」でない彼らには無理なこと自分でもわかってて、そこには踏み出さなかったとw

でも、今あえてこれを撮るに際し、プロデュースだけという「逃げ道」は作らずに、きちんと監督することによって責任はちゃんと全部負うよと。

acoyoさんの文章読んで思いっきり頷きましたが、かといって、傑作認定取り消すつもりはさらさらありません(爆)すいません・・・。
Commented by kiyotayoki at 2011-04-25 10:29
なるほどacoさんの感じられたビミョーさは、そういうビミョーさでしたか。
確かに14才さいう多感な娘を主人公に頂くのなら、それを活かす描写がもっとあってよかったのかも。
いや、一カ所でもそれを象徴するような場面がキラリとあれば、acoさんのビミョーさも少しは和らいだかもしれませんね。
これは、コーエン兄弟ばかりでなくオトコの監督のちょいとばかし苦手分野なのかもしれません。
西部劇の場合、凶暴な自然の前では男も女もないみたいなエクスキューズもしちゃいそうですし。
僕的には、いびきで眠れないマティのエピソードで、いびきをかきそうな父親不在の家庭を想像してしまい、
普通なら父親に反発しそうな年齢だけど、マティはまだ父を理想化してるんだなと思え、
だから、それに応えて父親的にふるまってくれた2人の男に満足してしまったので、
そこにビミョーさはあまり感じずにすんでしまったみたいです(^^ゞ
Commented by acoyo at 2011-04-25 20:18
★tomboriさん
ぐずぐず言ってたのを、わかっていただければそんで嬉しいです。
ヘレンたんのは、先日観たのは確かに「狂気」でしたが、あの人ならなんでも目で「マルビル電光掲示板」ができるのではないかとかついw。
ええ、他のコーエンシンパがぐずぐず言ってるのも見て回ったけど、わりとばらばらだったんですね。そいで自分で考えたわけです。どんどんのっぺらぼうになりつつある脳に少しは皺が増えたかと。ここまでしつこく考えたのは、多分、tonboriさんのレビューがかなり刺激になったなと(爆)。どっかで生意気にも悔しかったにちがいない。
Commented by acoyo at 2011-04-25 20:19
★micchiiさん。
1.餅の件があるから 2.最近やたらぶたれて萎縮してるから 3.実はコーエン兄弟に謝っている。……以上三択でお願いします。
>【「許されざる者」を経た西部劇】
だからこそ、その系譜で恐れ畏んでる場合じゃねえだろうともw。壊して作り直すのがリメイクなら、すぐ前に居る大先輩にだって蹴りいれて来い! というのが、私のコーエン兄弟へのリスペクトでございます。いっそ、(例によって)どかんと失敗してくれた方がすがすがしいという、当人たちの懐事情なぞ一切斟酌してないのw。
>プロデュースだけという「逃げ道」は作らずに、きちんと監督することによって責任はちゃんと全部負うよと。
そのへんもね~、アカデミー賞監督ってとこで客が確保できるしなあ~、スピルバークがそう言ったかいとか思ってしまう、ダークなわたくし。
>傑作認定取り消すつもりはさらさらありません(爆)
それでこそ漢でございます♪
Commented by acoyo at 2011-04-25 20:19
★kiyotayokiさん
>オトコの監督のちょいとばかし苦手分野
と私も思ってたんですけどね。でも、自分の仕事でかなりシーゴラスの意見求めたりしてるうちに、実は、異性の方が、同性にはわかんない「どきっ」が見えるのだなとわかりますた。
そこんとこは、昔の名監督の方が、無骨そうな顔して見るとこ見てたよなあとかふと思います。大人だったんだなと。
父親的存在としては、私もうまく描けてたと思います。マティの父親崇拝は「長男教育」のなせる技じゃないのかな? 普通に長男教育された男の子ならそろそろ反抗始まるけど、「長男教育」された娘の反抗期はやや遅いと思います。
でもねー、しつこくてごめんなさいですけど、「父親」ってだけで済ますには14歳って微妙にすぎる「美味しい」年齢なんですよ~。美味しいのに勿体ないという(爆)。
Commented by micchii at 2011-04-26 21:31 x
>1.餅の件があるから 2.最近やたらぶたれて萎縮してるから 3.実はコーエン兄弟に謝っている。……以上三択でお願いします。

3. いくらこのブログが素晴らしいとはいえ、さすがにコーエン兄弟が読むことはない。

2. 柄じゃない。

結論。

餅一択。
Commented by acoyo at 2011-04-29 03:58
★micchiiさん
餅は欲しい、欲しいが……ふふふ、まだ、私とゆーヒトを見切ってはいないのね。