One Friday night of the suburbs ある郊外の金曜の夜
●片山由美子作品をめぐって(俳句工房[ZA])
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多分、私にとっての原風景というのは、郊外。それも開発が終わりきっていない時間の中で、田んぼの中にぽつぽつと建ち並ぶ新建材の家々や、山を生々しく切り開いて聳える真新しいマンション群、というところになるんだろう。
いわゆる、戦前からの住宅街とは、光景の肌合いがまるで違う。まして、アップタウンであれダウンタウンであれ街育ちの人、田舎育ちの人と違うのは、私がそこに感じる何かは「自分がかってそこに居た」という一点に尽きるということだ。
「故郷」という言葉につきまとう優しさや温もりはない。「じゃりんこチエ」が持つ人の体温の生々しさはコンクリートの壁で拒否されていたし、「小ぶな釣りしかの川」もあったけれど、それは「地の人んちの子供」のものであって、ニューカマーの私たちのものではなかった。
どれもこれも、できたばかりの時はモダンできらきらしいが、すぐに古びて汚らしくなり、決して風景として熟成しない町だ。20年もすれば、そこは老人だけの町に変わる。所詮、人が促成で作り上げた光景というのは、そういうことなんだと思う。
それでも、こういう光景が、私にとってはかけがえのない原風景だ。
私はこういう場所を知っている。郊外の小綺麗な町の中では、悪意は決して水面に浮上して流れることはなく、泥底にたまって腐ってゆくことを知っている。その饐えた臭い、家庭用消臭剤では決して消せない臭いが、いつも町のあちこちで澱んでいるのを知っている。だからこそ、長い夜を、六畳の小さな部屋にこもって息を潜めるしかない子供たちのことを知っている。
街は街で最近はそういうところもあるんだけれど・・・・。
そういう澱みが今起きていることにもリンクしていくのかなと少し感じます。
住宅都市計画ってねえ、結局、いろんなとこ「計画」しすぎるとうまくいかないんだなあと思います。
★tonboriさん
>そういう澱みが今起きていることにもリンクしていくのかなと少し感じます。
私はそれを酒鬼薔薇のときに強く感じました。私が住んでるのはああいう「山の中に忽然と」というタイプの町じゃなかったんですが、ある種わかる気がしたんですよ。勿論、健全に機能してるニュータウンも山ほどあるんですが、あの小綺麗さに固執すると怖い物になるなあと。