今度はスティーヴン・キング読みとして語る。『The Mist』#2
kingdowさんが言われた。「(キングの映画観るときは)キング好きとしての視点は捨てることにしています。そうしないと、許せる映画なんて皆無に近いですから(苦笑)」
そうだよなとしみじみ。よくぞ今まで、映画館で暴動が起こらなかったものだ。
なんか今じゃ、キング読まない映画ファンにさえ「キング原作」は不信のブランドになってない? 実際、映画としてもぱっとしないのが多いじゃん。何か? キングの作品には映画ダメにするぞウィルスでも潜伏しとるのか? とかつい。
んで、じゃあ、今回の『ザ・ミスト』、他のキング読みの方の反応はといえば、まずkingdowさんとyoshinoさん(「筋金入り」でお好きかどうかはちょっと不明、お読みになってることは確か)は映画ファンとして語っておられて、諸手を挙げてではないけど好意的。ネットでも傑作の声が高い。
それに対し、bluegeneさんは清々しいほどきっぱりキング・ファンとして「否」。
ほんで、お前は? と聞かれれば、映画としちゃ「どうってことナイ」で、キング・ファンとしちゃぁ、「許せるもんかい」。だもんで、yoshinoさん、ごめんなさい。自称筋金入りのわたくし、徹頭徹尾、I can't get no satisfactionです(藁)。
さらに、これまたキング読みのK氏にメールしてどうよ? と聞いたならば、レスは短く、
「キングの劣化コピー」
または、「キングの安直なモノマネ)」
あはははははははははははははははは……あ・けんっ・げっのー。
さて、『ザ・ミスト』、ラスト以外の原作の改変点で、ま、ぱっと目につくのはやはり「アローヘッド計画」をどんと前に出したことな。結構、これは好評だったりするけど、私は、? と思う。
つうのは、原作ではこれは町の噂として語られる潜行ネタなのね、そこへ兵士の首吊り死体がぽん、と出てくんだが、倉庫でそれ見っけた主人公とオリーは急いで隠すんだよね。ただでさえテンパってるスーパー内にこれ以上の動揺を広げないためにさ。
だから、「まさか……?」ってだけで、最後まで何だったのかは曖昧なまま、これもまた晴れない「霧」なんだよ。
ところが映画では、ラストへの伏線で「告白タイム」★1作っちまって、霧の奥の深さを奪っちまう。ほんま、ダラボン、なぜ『霧』が怖かったか、なぜ傑作と呼ばれてるのか、わかってねえんじゃね?
あのさ、原作では、「何がなんだかわかんないうちに霧に閉じこめられて」「何がなんだかわかんないもんが襲って来て」「わかんないんじゃ解決も対決もしようがないじゃないのよ、どうしろってのよ」というhelplessさ、圧倒的な無力感がまず肝だったのな。
だが、映画ではアローヘッド計画がスーパーに居た人々にも「ああ、アレね」と事実認定されてしまう。おかげで、「何がなんだかわかんなくて怖いよう」がぐいっと引いた。
そいで、本来スモールタウン・ホラー密室系であって、それ故に怖かった『霧』が、いつの間にか怪獣映画にシフトしていた。おいおい。
いや、私は基本雑食系で日和見だし、何かのジャンルに操をたてるよな志操堅固なとこはないしね。別にSFでも怪獣もんでもそこにおバカが冠でついても、映画としておもしろけりゃそれでいい。おもしろけりゃね。おもしろけりゃね。
んだから、原作付映画の原作離れもかまわない。原作を批判的に解釈して撮られた映画だってかまわない。おもしろけりゃね。または原作を遙かに凌ぐ、少なくとも拮抗するクォリティがあればね。(映画版『サイレントヒル』はそうだった。押井のの原作ものもそうだ)★2
まあ、八割の映画がそこまではいかないだろうし、なら、その場合、原作のファンとしてせめて守って欲しいのは、原作のコア、あるいはスピリッツだけは残して欲しい、ってとこだよね。だって、その原作選んだ段階で話題性と原作ファンの動員で得してるわけでしょうが。あらかじめ見込まれてる客としちゃ、こっちの最低要求くらい満たしてほしいわ。
ほんで、あの「衝撃のラスト!」ですが、前に書いたように、あのラストの「アイディア」にどうこう言うつもりもない。よくあるお先真っ暗エンドだし。ただ、キング様ご納得ってのがお墨付になって、「傑作」認定支えてるふしもある。それにはムカ入る(爆)。
キングの納得が映像にまで及ぶのかは知らんが(したかもな、あのシトは映画論出してるくせに、すげえ映像音痴だ)、だから何? キング様が納得したらこっちも納得せにゃいけんの? それと、仮にキングが『霧』の執筆中にそのアイディアが浮かんだとしても、その頃の筆力なら、あんなぬるくはならないよ。
そいで、「スーパーマーケット出るまでは原作に忠実」ってのはわりにみんな書いてるんだけど、わりと細かくアレンジは入っている。そんで、実はこの「忠実」がミソなんだよね。
どうも『ザ・ミスト』の忠実ってのは、原作にあった情報を「橋田壽賀子な台詞」★3でできるだけ伝えました、書いてあることはやるようにしましたで、それで説得力がでりゃ、脚本家は苦労しないじゃん。それこそ、原作の字面を追うだけの脚色、演出に思えたな。
そりゃ、キングの文章は情報量が多い。丹念と言えば聞こえがいいが、正直言って無駄も多い。饒舌が過ぎて「冗長」とも「電話帳」とも言われる。おまけに下世話で通俗的だ。
でも、その無駄も通俗性もまたキングの魅力だし、人物や情景描写のリアリティになってんのさ。ふんと体臭まで鼻をついてきそうに「リアル」な人々が、飽ききった日常の固まりみたいに「リアル」な場所で「外部」に、化け物だの生き霊だの死霊だのというに出くわす。平々凡々と退屈な、だからこそ平和な日常が非日常に侵され、凶暴に変質してゆく。それが怖いんですよ。それがスティーヴン・キングだったんですよ(過去形なのが哀しいが)。
んだが、ダラボンはその情報量の本質でなく、「量」に振り回されてたようだ。
前にテンポ悪いと書いたのが、そういうこと。なんつうの? 映画の中の時間が加速したりシフトダウンしたりしてぐいぐいクライマックスに近づくんじゃなくて、こう画面の横に、フレームで「原作対照工程表」が見える感じがしたんだわ。
原作に忠実にと気負ったあまり、原作に台詞のある人物は全部出した。それだけでも結構な数なのに、「ラスト向け」対策でさらに人物を増やした。んでも、頭数だけ揃えても、橋田な台詞じゃ密度の高い群衆劇になるわけもなく、結果、交通整理ができず、各人の演技では光るモノがあるにも関わらず、物語としては死にキャラ・捨てキャラ、要するに血の通った人間ではなく、筋進行の駒にすぎないキャラが続出した。
たとえば、アマンダなんかいい例。原作では彼女の比重はかなり大きい。けど、映画では、(ラスト用伏線対応割り込みキャラに時間使った煽りをくらい)最後まで「ビリー(息子)の保母さん」だった。
確かにミセス・カーモディをひっぱたくという見せ場はあるけど、原作での彼女の役は、主人公の横に居る綺麗どころ兼保母さんじゃなくて、もっとはっきり「代理妻」なんだよね。
原作では、彼女の存在感と主人公の「置き去りにした」妻への思いが正比例する構図になっている。家族を置いて来た者同士が、ビリー囲んで疑似家族を作ることで、そこにいない家族への思いに辛うじて耐えてるわけですよ。
実際、あの映画での「妻」の描かれ方は手抜きもいいとこだが、原作では主人公のモノの中で妻は繰り返し出てくる。状況考えれば当たり前だわな。ところが、映画はそれを捨てた。しかも、捨てといて、ラスト近くになっていきなり妻の死体出すんだよなあ。一瞬、「あれ? これ誰だっけ?」だったよ。(他にも大火傷のジョーはどしたぁ? とかありますが)
後、ラスト前のご帰宅場面ですが、1.子供死守 2.車には同乗者が居る(彼らにも家族は居る)という設定で、あの段階で、わざわさ家に寄るなんてガソリンの無駄かつ危険な行為をすることについても、原作ではちゃんと主人公が頼み込む場面がある。だが、映画には無い。それ無いと、なんか、主人公が身勝手なだけの人に思えるのな。
さらに、ガキの「僕を怪物に殺させないで」という台詞も原作に無い。ラスト用伏線なんだが、これって免罪符じゃん。「『ペット・セマタリー』書いたキングがそんなぬるい言い訳打つかよ」とシーゴラスが怒ってる。
tonboriさんも指摘した「なんでラジオつけないの」。これも原作はちゃんと押さえてる。
こういった些細なことを押さえるか押さえないかで、物語の整合性も人物の奥行きも変わる。感情移入のしやすさがまるで違って来るんだわ。
そんな風な「台詞以外」でのキャラ付けディテル無視路線の結果、父子関係の描き方が通り一遍でおざなりになってる。キング・ファンとしちゃ、「腸ぶちまけるまで戦ってない」ことと並んで、逆鱗を金属たわしでこすられた気分だわよ。
なぜって、父と子という設定はキング自身のオブセッションで、作品には繰り返し出てくるんだもん。概ね、主人公とその父、その子という三世代の問題で、この『霧』の主人公にも、有名な画家の不肖の倅というコンプレックスがあり、それが自分の息子への愛情に反映してんの。そういう一種強迫観念じみた、でも、だからこそ切なく強烈な愛情なの。
主人公にどうしても陰影が欲しいのはそれでなんだよな。
ここまで書いて、「ああ、もう原作ファンってのはあれも書けこれも出せ、ってそんなことやってて映画化なんか出来るわけねえじゃん。うぜえ」と言う声が聞こえそうだわ(藁)。
でもねー、あのさー、あたしゃ映画ファンでもあるの。んなことわかってるの。だから、そのまま描け、なんて言うとりゃせんの。
ただ、こういう雰囲気は、陰影は出てますか? ってこと。原作の一言一句忠実にやったって、そういう雰囲気が出てなきゃやらない方がましでしょ。2時間の尺で、それを伝えるのに何を使って何を捨てるか、何を足すか、それ考えるのが脚色でしょ、演出でしょ。別に原作のエピソードをまんま使う必要はまったくない。そのスピリッツが出せるなら、いくらでも新エピソードに変えればよろしい。★4
実際、原作があろがなかろが、娯楽だろがB級だろがアカデミー狙いだろが同じで、何を描くか描かないかは、映画(の中の物語)にとって必要か必要でないかで決めることなんだわ。不要なら、フィルムの無駄はしないに限る。でも、必要なら、やらなきゃいけない。
けれど、どうもこの映画は、原作に忠実ってのは頭数揃えて字面だけ追うことで、後は「衝撃のラスト」対策に汲汲って感じでさ、原作の何を何のために残さなければいけないのか、考えてたように思えなかった。
そりゃあ「娯楽映画」★5でしょうから、死体増やすなとは言いませんが、奥さんやレジのねえちゃん、薬局の『エイリアン』もどき、外にぶん投げられた兵士等々、どうも困った時の死体頼みでねえ。「ともかく誰でも残酷に殺しゃ、盛り上がるもんじゃねえの」なんて楽な逃げは、『霧』書いてた頃のキングならあんまりやらなかった手だよな。
そんな死体増やすよりも、閉鎖された恐怖空間の中で、群衆一人一人の「内面」が変化してゆく様を、細かく細かく積んでいった方が、空気の中に生きて蠢く恐怖が出せたと思うんだけどね。人員整理して、アローヘッド計画がらみのシークエンス減らしゃ、そうする時間はあった筈だ。
結局、『ザ・ミスト』は「キングのモノマネ映画」、『霧』でもなきゃキングでもない。
キングの作品はいつも、人物の内面を描き込むことで、絶望という名のデス・スパイラルが生まれて育っていく様をありありと見せてくれた。そこに呑まれ、堕ちてゆく人、「人」でなくなる人、懸命に戦う人、それぞれのデッドエンドでの葛藤が、キングの描いた怖さなんだもん。
bluegeneさんが仰有るように、キングの主人公とは、そんなデス・スパイラルの中で、重すぎる使命を背負って戦うんです。「たった一つ残された大切な何か」以外は何もかも振り捨て、満身創痍になって戦うんです。諦めないんですよ。
そいで、私は、キングの小説の中では「使命を果たす」ことより、「戦い続けること」の方が重い気がするの。あくまでも、私の意見だけど。
そうやって、腕の肋骨の二三本折れても、満身創痍でも諦めないからこそ、たとえ使命は果たせなくても、敗北しても、どんなお先真っ暗No futureなお終りでも、何かそこに小さな清々しさというか、開放感があった。希望の匂いというものがあった。決して希望そのものじゃなくて、どこまでも「匂い」なんだけどね。★6
それが私がキングを読み続けた理由なんだと思う。
ちなみに、そういうもっとも輝いていた頃のキングってのは、どこ出しても恥ずかしくないB級作家、大学生が読んでるって人前で言いたくない作家だったんだからね、念のため。
そうやって彼も、自分に与えられた場所でベストを尽くしてたんだわ。
(あ、そだ。私が認めるキング原作ものはですね。傑作認定はクローネンバーグの『デッドゾーン』。あとは『ペット・セマタリー』だけど、これは「許せる」ってとこですか)
★1 この映画での伏線の張り方ってのは、なんかねえ、後でぽんと膝を叩かせたり、「そう来るか ニヤリ」っじゃなくて、単にタラボンのスケベ心見え見えで(藁)。いっそ微笑ましい。
★2 ちなみにわりと原作無視路線でキングも怒ってた『シャイニング』はどうかと言えば、確かに、ホテル内でガキが見るホラー・シークエンスの映像化は圧巻で、ある意味原作を凌いだけど、トータルではどうかなあ。J・ニコルソン出た瞬間に見切れちゃうのが致命的だよ。ところで、シーゴラスは、偶然、ロケに使ったホテルに泊まったことあるんだよ(藁)。
★3 状況や設定を全て会話で説明しようするやり方。橋田「大先生」の『渡る世間に鬼ばかり』が最も有名だが、大映ドラマ、昼の帯ドラのメインメソッドでもある。結果、物語の進行が台詞に依存することになり、説明的になるので、映画でも小説でも、普通はあまり褒めてもらえない手法だが、TVの場合、「先週の内容を忘れてるおばあちゃんにも、家事で忙しくておちおち画面を見てられない奥様にも話がわかる」というメリットもあり、これはこれで需要のあるプロの仕事。
しかし、この間、生まれて初めて『渡鬼』をワンシーズン全部観るというのをやったが、私にとってはいかなるホラーより恐ろしい不条理ドラマだった。つるかめつるかめ。
★4 たとえば、映画のクリーチャーは原作に書かれたのを「必死に」三次元化しておったが、無駄(藁)。『霧』が出てから何十年もたってる上、彼は怪物の造形はさほど得意じゃない(「IT」の例もある)。だから、そんなとこの忠実再現なんて一部原理主義者以外誰も望んどらんし、今の感覚できちんとクリーチャーデザインすりゃいいじゃん。怖がらせなきゃいけないんだし。
★5 ただ、「娯楽」映画ならばこそ、あんな安直なラストで絶望気取っていいんか? とか。B級の予算とスタッフでも、あの原作の余韻を映像化するのは可能です。そういう映画はいっぱいあります。今まで映画観てきた私が保証します。
★6 原作のラストは決してハッピーエンドじゃないのよ。どこにも悪夢が終わる保証はないんだもん。ただ、問題は、そこでどうしたか、どうするか、そういうことです。
レディースデーを利用して、悪評紛々の『ミスト』を見てきた。 伝統的にスティーブン・キングの小説は映画化するとダメダメになる傾向が強いのだが、とくにフランク・ダラボン監督が手がけた『ショーシャンクの空に』と『グリーンマイル』の二作品は、一般ウケはいいのだがキングファン的には「なんなんだよこの大げさなお涙頂戴は」と不満たっぷりの仕上がりだった。 ダラボンという人は、正直いってキャラクターの描き方がすごく薄っぺらいのである。キングの作品はホラーといいながらキャラクターの心理が丹念に描かれる小説が...... more
で、キングでもなく怪獣映画にもなりきれていないのがダラボンの才なのねという部分もあるんですけれど、
自分のエントリで書いた9.11後に毒されすぎなんかなあという感じがします。ならばこその原作エンドの方が良かったのにねというのも含めて。
このテーマについてはファンなら一家言あると思われるので、トラバ大会なんかやったら面白そうですが。
たかーのつめー(爆)。
>ダラボンの才
そうとも言えます。さすが、オトナ。
9.11つうか、アレをどう考えるかっていうより、ともかく反旗上げときゃいいじゃんって感じがするんですね。最近の映画の兆候は。なんかそれがすごくいやんな感じという。
ともかく、こんな無神経に長大な文章、読んでくださっただけでうれしいっす。
★kingdowさん
↑と同じ事でお礼を言います。いえ、TB予約踏み倒しは自分が日常的にやってるんで、いつかその気におなりになったとき、ということで楽しみにしております。
トラバ大会ですか? なんかすげえバトルロワイヤルになりそうな気が。
主観で作るの当たり前。
原作を書いた人の主観が合う人
映画を作った人の主観が合う人
人それぞれ。
それが嫌なら見るな。
映画にしても
小説にしても
漫画にしても
音楽にしても
造り手の傲慢な押し付け。
別物と考えて見た方がいいんじゃない?
小説に固執しすぎで
正直ウザい。
粗探ししてるみたい~