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 この間、2ちゃんをうろうろしてたら、古いスレに大阪叩きがあって、
 「東京に居る大阪人、何故東京弁喋らん!」つうのと、
 「大阪で標準語を話すことを毛嫌いするな!」つうのがあった。
 この二つの主張には笑ってしまった。(んで、ごめんなさい。今、調べ直してみたけど、どのスレかわからなくなって、リソースの提示ができません。ご容赦ください)

 私は、これはもう大原則として、どこの方言であれ、ネイティヴが喋るのを聞くのは好きなので気にならないのだが、確かに、関西弁は、かなり確信犯的に、営業戦略的に使われることが多い。(あの司馬遼太郎氏も「ものを断るときには関西弁を使う」と言われていた)
 そうするとあたりがやわらかくなるとか言われるのだが、実際は、言い様によっては独特の粘ついた感触が出て、圧迫感を感じる人も多いだろう。それに、生まれも育ちも関西圏の私でさえ、あの「大阪大好き、阪神命」ってな関西原理主義者には辟易している。何故、そうまで暑苦しく声高に「愛を叫び」たいのかと思う。

 というのも、私は、兵庫県阪神圏から一歩も出ずに生まれ育ち、父はこてこての浪速男だったが、マザータングの担い手たる母は関西圏外出身者の上、若い頃は東京で暮らした人だった。だもので、私が最初に獲得した言語は「イントネーション微妙な標準語」だった。
 その後、外部学習により、かなり関西弁よりに修正されたが、大学時代に友人から感染した岡山弁という存在もあって、部分的におかしなアクセントが残っている。さらに、ご家庭の躾として、シリアスなorオフィシャルな会話はアクセントはどうであれ言葉面は標準語ってのが、身に染みついてしまっている(これは阪急沿線在住者によく見られる傾向である)。

 んでもって、長じて後、会社勤めをして、入社後3ヶ月ほどたったある日、先輩(男、当時30歳くらいか)と普通に世間話をしていると、いきなり、きつい命令口調で言われた。
「あんたの喋り、その大阪弁なまりの標準語、すっごいむかつくし、止めや」 
 むっとしたり、恐縮したりする以前に、何を言いだすのか、この人は、と呆然とした。
 彼は大真面目だった。私が生意気だとかエラそうだとか言いたかったのだろうが(それは認める)、その理由を、彼は、態度が不遜だとか、敬語の使い方がおかしいとかいうことではなく、標準語を使うことだと指摘して怒ったのだ。

 まこと、関西というところは、プライヴェートでもオフィシャルでも、おおっぴらに人を嫌っていい理由に、「標準語で話す」が通用する世界だ。「えらそう」「気取ってはる」「自分をかしこいて思てはるわ」(*1)などなどの、時として言いがかりに等しい評価がつきまとう。
 さらにその党派制は内部にも敷衍され、神戸VS大阪論は歴史的命題だ。どころか宝塚VS伊丹、西宮VS尼崎、呆れる程ローカルなレベルでまで角突き合わして唾飛ばしあう。
 どれもこれも、結局は裏返った劣等感以外の何者でもないのがさもしい。人様のアイデンティティを誹ることで、必死に自分のアイデンティティを保とうとしているだけの、いじめの屁理屈なんだから、情けねえったらありゃしねえよ、本当に。

 でも、だからトーゼン、東京では東京弁喋れ、と言う「東京人」ってのも同じことなわけで、こうなると目くそ鼻くそだよなあ。

 ただ、この春、10年ぶりに上京して仰天したのは、地下鉄構内エスカレータ前の行列だった。ええ、エスカレータを歩く人と歩かない人をわけるための行列です。
 午後2時か3時くらいの全然混んでない時間帯だった、そのままみな適当に乗って、乗ってから状況に応じて場所を空ければいいだろう、それでスムーズに人は流れる。なのに、彼らは意固地に長い行列を作り、右側(だったと思う)に立ってエスカレータを登るため、ホームを塞いでいた。
 その様に、私は眩暈さえ感じた。

 元々、エスカレータの棲み分けは、いらちの多い大阪で生まれた現象らしいが、発祥地では状況に応じてそのあり方は刻々と変わる、少なくとも、長い行列を作ってまですることじゃないという相互理解がある。
 大阪には、街中の人の流れは、川の水と同じく、滞らせてはいけないという共通認識があると思う。街中で歩くとは、その流れに乗ることだ。その流れが、大阪の場合、至ってランダムで未整理である。複数の流れが渦を巻かないぎりぎりの線で錯綜している。だから、街を歩く行為は、自分がその中のどの流れに乗るか見極めることから始まるので、他都府県の方々が、大阪の街は歩きににくいと言うのも無理はない。でも、慣れればかえって歩きやすい街だ。

 翻って、東京の大行列だが、あれはどうも「原則論」の匂いがする。フレキシビリティに欠けているのである。真面目と言えば真面目だが、同時にそれは、現実的有効性より理想(と言う名の自己満足)を貫く方に重きをおく考え方の現れである、よーな気がする……と言っては言い過ぎかしらん。

*1 標準語に直訳した場合の「自分を頭がいいと思ってるのさ」とも意訳の「利口ぶってる」ともニュアンスが違う。生な声(それも陰口のひそひそ声で)で訊くと、その染みわたる悪意の重さと粘着性は相当なもの。議論の最中に、突然、「自分(二人称呼びかけ)、自分をかしこいて思てるやろ?」との問いかけで、切り崩しに使われる場合も多い。
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 先日、WOWOWでR.E.M.のライブを観た。DVDでも出ている、去年のライヴである(放映はDVDより3、4曲ばか少ないみたい)。
 「ああ、欧米で生き残るバンドってのは一にも二にもライヴ・バンドだあ」 
 と、当たり前のことに感じ入った。ここ十年、来日してくれない恨みをたっぷり込めて。

 確かに、R.E.M.の一つの頂点だったROAD MOVIEの頃(だから十年前だよ)、あの武道館で観た時の、異様にはりつめた空気とそれが弾けた瞬間の至福感、はもう無かった。マイケル・スタイプの眸の狂気もやや薄れ、風格と言えば聞こえはいいが、あなたも丸くなったわね感があるのは否めない。(初めて観る人には、やはり、ROAD MOVIEを薦める)
 演出にも相も変わらず派手さはなく、演ってる当人たちも、学生バンドがそのまま四十路になりましたってな、どこかインテリおたくな影をひきずる冴えない中年揃いだ(某洋楽サイトで「カレッジ・ロックの雄」と紹介されてたが、だからそれって何年前の話だ?)。
 でもまあ、それがR.E.M.なのである。
 なんつうんだろう、あれだけのビッグ・ネームなのに、自分たちが変わりたくなかったとこは、意固地に変わんなかったし、これからも変わらないだろう。彼らには、そういうある種の、飄々としながらも、揺るぎない佇まい(「スタイル」というより「佇まい」)がある。
 もっとも同居人に言わせると、そのあたりにどうも「頭のいい人の嗜みのよさとかそつの無さ」を感じて、俺は今ひとつ性にあわん、となるのだが、ともかくLIVE IN GERMANYの話。
 そんな柳に風の佇まいからは信じられないほど、演奏はたたみかけるようにタイトで見せる、聴かせる(これが「そつのなさ」か?)。いやいや、マイケル・スタイプ、声は荒れ気味だががんばってるぞ、頭は禿げたが太っちゃないぞ。ラスト、IT'S THE END OF THE WORD AS WE KNOW ITでドラムが刻めば、こっちも階下の住人のことも考えずに跳ねちゃうぞ。
 時節柄、ORANGE CRUSH(=枯葉剤)にえらい気が入ってたように思えたのは、私の深読みか、話題の大同団結ブッシュ下ろし興業〈Vote for chage tour〉ではWORLD LEADER PRETENDとか演る気か、それともIGNORELANDか(クリントンの就任の時には演ったって、いつの話だ)などと、ロートルの思いは様々に広がってゆく夏の終わりである。
 秋には新譜が出る、U2の新譜も出る、何かとめでたい。

 で、関係ないが、最近、ATOK17のユーザーサービスで、音楽家名辞書とかいうのをダウンロードした。そこでこの文章を打ってて、当初、「マイケル」と打つと、ATOKは即座に〈マイケル・ジャクソン Shift+Enterで変換〉と示唆してきた。所詮、JustSystemの眼中に元祖オルタナ系なぞないのだと思いつつ、「いや、好意は嬉しいけど他のマイケルだから」と無視した。するとそのうち、学習意欲の高いうちの辞書は、「マイケル」と打つと、「ふふ、覚えたぞ」とばかりに〈マイケル・スタイプ Shift+Enterで変換〉……。ミルズの方かもしれないだろうが。
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 というわけで、私は半隠棲者であるからして(笑)、めったにロードショーにもコンサートにも行かない。TVもケーブルとBSばかりで地上波はほとんど観ない。新聞も取ってない。当然、活きのいいネタなんて出て来るわけがない……と、開始早々から景気の悪い話だわ。
 いや、ケーブルでがんがん流れるから、最新「予告編」批評は得意になった。
 結論としては、しつこく予告編を見せられ続けると、八割の映画は観たくなくなる。
 
 「ビデオは好きか。おれは大好きだ。いつも借りて観る。映画館が嫌いなんだ。コッポラが何と言おうが知るか。『地獄の黙示録』は小さい画面のほうがいいんだ」
 これはアメリカ刑事ドラマの最高傑作、『ホミサイド殺人捜査課』で、マンチ刑事が言ってた台詞だが、わかる
 いえ、単に出不精の開き直りなんすけどね。映画館がなんかやだっつうのがあるのも事実。閉じこめられて、でかい画面とでかい音で無理無体に集中させられるのがどうもってのと、時々、横の客がすっげえ気に触ったりってこととかで。
 でもまあ、一つ言い訳すれば、SFX大作については、TVで観た方が、大画面と大音量にごまかされずに済む分、脚本や演出が、いわば監督や役者の力量がダイレクトに見えると思う。(けど、そうしてると、たまに映画館行ったり、ライヴ行ったりすると、何でも新鮮に見えちゃってさらにだまされやすくなったりするのが難)

 実際のとこ、私は、うちのTVで、うちのステレオで、洗濯物たたんだり、ご飯食べたり、仕事したりしながら、映画を見、音楽を聴いている。窓の外からはわらび餅売りの拡声器が響き、近所のガキが雄叫ぶ、傍らでは同居人がトイレに立ち、実家の母が電話して来る、そんなこんなの注意散漫な環境でも、ふと画面やスピーカーの前で正坐させられてしまう時があるから、映画ってのは、音楽ってのは、凄いもんだよなあと心から思う。
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 えと……ども、こんにちわ。最初なんでご挨拶をば。
 横にも書いてますが、今でこそ、ひきこもりおばさんの私ですが、遙か昔は所謂、総合職でございました。出張だ会議だとばりばり働いておりました。カルバン・クラインのスーツに身を包み、コーチのバッグを抱えて、残業後は夜の街で遊んでおりました。
 それが諸般の事情で会社を辞して幾星霜、その後も幾つか職を転々とした後、この一年は、宝塚~川西市半径二キロ(一応、その中に紀伊国屋とHMVとJoshinと阪急百貨店がある)を周回する日々、身なりはもはや言うに及ばず。おかげで母は泣きます、少しは出歩け、身綺麗にしろ、習い事に行けスポーツクラブに通え旅行しろと(注;パラサイトではありませんよ、私は)。でも、これがまた、わりかし心地いい日々だったりして(笑)。
 そういう、「閉鎖的で自堕落な」日々の中、「頭でっかち」に膨らんでくものを書いていきたいなあと思ってます。
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