確かに、「要る人は要る 要らない人は要らない」――でも、私には絶対要る!
 私はもう物心ついて以来の文房具マニアです。だから、紆余曲折の末、メモ帳はRHODIAと決めた(オレンジの表紙の)。片岡義男も褒めている、ポール・スミスも使ってるのグッドデザイン。
 これはそのマウス・パッド・タイプのブロック・メモ。もうとっくにあちこちのHPやブログで紹介されてるけど、ほんと、百聞は一見にしかず。便利だったらありゃしないさ。

 パソコンやってると、結構、メモが要る。前はテキストエディタを開きっ放しで対処してたが、機嫌良くAlt+F4を押し続けている内に「おい!」と叫ぶこともよくあった。パッドの側にメモを置いたりもしたが、どうも邪魔で……。そいでまたマウス・パットも長年、君だ!というのが無かった。光学式だから別に要らないけど、机に手垢がつくじゃない。クロスはすぐ汚くなるし、PVCは汗掻くと気持ち悪いし。それに、正直、飽きるの、デザインに。ええ、私は飽きっぽい(藁)。

 そんなときに看板屋さんと仕事することがあって(その縁でCorel Drawという超マイナーなドローソフトを覚えた)、そこではパッド代わりに机に裏紙を貼っていた。
 やる人はわかると思う。パソコンで絵を描くと、RGB数値とかメモることがやたら多い。だから、そこに書き殴って、汚くなったら貼り替える。紙だから吸水性は抜群で夏でも使いやすい。
 ほおと思ったものの、さすがに家でするにはオフィス仕様過ぎて(藁)……愛する無印のデスクに裏紙をマスキングテープで貼っつけるなんて、「おたれな」わたくしにはできないわ、と思っていたら、これ。近所の輸入雑貨店で見つけた。
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 一冊500円(税込み525円)てのは使い捨てには高めかもしんないけど、かなり長く使えるから、それなりにリーズナブル(紙面がでかいから、書きでがある)。汚くなったらべりべりと破って次の頁へ裏に滑り止めついててずれないし、Corel DrawでもPhotoshopでもマウスの滑りに問題無し。
  ただし、厚手が疲れる人はダメだよね、確かに、そこが難。写真のは相当使いこんで薄くなってるし。でも、
 何といってもRHODIAだから、ほんと、目に入っても腹が立たないの! 飽きない!
 もちろん、パソコンを立ち上げて無い時は普通のメモにも使える、二倍お得(当たり前か)。

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デヴィッド・リンチの「ストレイト・ストーリー」

 書けない……。
 リンチ(身内での呼称は「小人のデビー」あるいは「リンちゃん」)についてはもう何年もまとまったものを書こうと思いながら、書けないでいる。近しすぎるからかしら(Homicide life on the streetについても書けないのはそのせいか)。
 
 近しいと言っても、私は別に彼のように、一日ががりで蠅の死骸を集めて油絵にくっつけたり、猫の解剖キット作ったりはしないよ。私は地味に人生を歩んでいる小市民です。
 
 リンチとは実はTP以来で、ブルベルも象男も後追いで観た。それより先に「砂の惑星」はビデオで観てたけど、目当てはスティングだった。美術には度肝を抜かれたが(あれは「ブレードランナー」以上にぱくられまくってる、特にゲーム)、それだけと思っていた。それが……と、こうやって始めると、まとまらない大論文になる(藁)。仕切り直そう。
 
 私は変な子供だった。
 残酷なもの、気持ちの悪いものは人一倍怖いのに、怖ければ怖いだけ、ふらふら引き寄せれれて凝視してしまうところがあった。学生時代、少女漫画を描いていた頃も(笑ってちょうだい)、変な題材が多かった。周囲の友人には評価してくれる人もいたが、気持ち悪い!と断言する人も多かった。先生に見られて、「何か悩んでるの?」と言われたこともあった(無論、お年頃だから悩みは多かったが、それと絵の題材とは関係ナイ)。
 そういうところはできるだけ隠さなくちゃと、乙女心に思ったよ。何言われるかわからないもん。私、フツーの女の子に見られたいもん。
 それが大学に入った頃から負けずに変な学友たちに恵まれ、そんな「身内」の間では心おきなく互いの「変」をさらけ出し合えるようになった。だが、クラスメイト程度の相手だと、執拗に隠した。今の同居人と出会った時も、かなり長く隠していた。
 それは、自分で自分のそういう部分が怖かったんだと思う。 
 それがリンチと会って、すこーんと悟りました(藁)。

 いえ、今でもフツーのおつきあいの人には隠しますよ。会社に入ってからも、後輩に○○さんの家に行きたあいとか言われると(ほら、新婚数年目だったんで)、壁にかけたリンチ撮影の写真*1は外したし、近所の奥さんから「レンタル屋行くけど、面白い映画ない?」と訊かれ、「ワイルド・アット・ハート」なんて言えますかいな。レッテルを貼られると面倒だし、己の個性を声高に自己主張したい年でも無し(藁)。
 でも、自分に対しては平気になれた。グロテスクなものに惹かれる自分に対して、大らかになれた。あのリンチのネアカなダウナー精神というか、あっけらかんとした変態性というか、犬の死体を解剖する自分を晒せる太さというか……書けば書くほど、バカだね、この人はほんとに。ともかく、そんな彼が私を楽にさせてくれた。いいんだ、私、これで。
 そういう意味で、リンチは私のセラピストだったとも言える。(その前のS・キングというのも実は潜在的に布石になってるんだけど)

 私はpureという言葉が嫌いで(あれは状態を示す言葉で、存在に籠もる意志が感じられないので)、innocenceという言葉に拘るのだが、私にとって、リンちゃんはそのイノセンスそのものだ。
 ラップに包んだ死体、ないすざんす、と思って撮り、じいちゃん、耕耘機でアメリカを渡る、ぐーじゃん、と思って撮る。そこに何の媚びも計算もない。関心のあるものにまっすぐに飛んで行き、道ばたでしゃがみこんで何かを見ている子供のようなものだ。(私は基本的に芸術監督より職人を評価するが、リンちゃんはまあ、作家だろう、どうしようもなく)
 だから、リンチは笑える。だから、リンチはほっとする。うっとりと、彼のグロテスクな夢の中で、幸福な時間が過ごせる。(だから、万人にお薦めはしませんよ、もちろん
 
 最後に、私は「イレイザーヘッド」をTP景気のサウンドリマスター・リバイバル上映で観たのだが(あれはリンちゃん若気の炸裂編で、凄すぎ。DVDも買ったけど、さすがに見返す気にはならない)、そのパンフレットに、ある評論家が、小学校6年の時にこの映画を初めて観た、と書いていた。
 私は嫉妬しましたね。小学生のときに、まだ人格形成期の内に「イレイザーヘッド」を観ることができたなんて、さぞかし素敵な悪夢が見られただろう。いいなあ……。
 
*1 粘土細工の顔くん。David Lynch com.の表紙にも使ってた。見慣れると可愛い。
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R.ゼルキン,アバド: モーツァルト ピアノ協奏曲23番 K.488

《かなし》の愉悦 

 私はテクニカルなことも音楽史的なこともわかんないので、イケナイと言われる主観批評になっちゃうのだけれど。
 ポリーニは、今はともかく、昔は「コンピュータ」とか「プレイング・マシーン」とか言われてたピアニストの筈だ。「技術的には天才だけど冷たい」という評価が主だった。この盤も、発表当時はそう言われていたそうだ。んで、鈍才の私は天才が好きで、また根っからの癇癪持ちだから日々冷静さに憧れていて、当然、そのクールな天才、ポリーニが好きだった。
 でもね……このべームと組んだポリーニを聴いていると、その冷たさが若さに聴こえてくる。ああ、ポリーニはラテンだよなあと改めて思った。ラテンといってもパスタでワインでドルチェ・ヴィタ、じゃなくて、遡ればギリシャ・ローマまで行く「ラテン的明晰さ」というやつです(ああ、忘却の彼方の卒論を思い出す言葉だ)。
 その明晰さが、主情派のピアニストと比べて「冷たい」となる所以だろうけど、グールドの出す北国の音とはまた違う。グールドが冬のカナダ、曇天の下、冷たい大気の中で戯れる光と影なら、彼には「君よ知るや南の国、晴れわたった青空の明朗さ」がある。
 それが、べームの「老巨匠の確かさ」(この時、御年80歳!)と四つに組み合うと、マイスターじいちゃんの頑固な職人芸の中でその晴れやかな若さが匂わんばかりで……ともかく、名盤。第2楽章の木管とのからみ、明と暗の綾なす色合いは絶品。何で今まで聴かなかったのかと悔いる。
 
 大昔、小林秀雄という人が「モーツァルトは《かなし》だ」と言って日本文化人のモーツァルト観を決定し、今ではあちこちで揶揄されている。
 でも、実際のモーツァルトがおバカなスカトロ趣味のちんぴらでも、彼の音楽にはやはり、古語でいう《かなし》があると思う。その《かなし》が軽やかな愉悦であるところが、私がモーツァルト、怖ええと思うとこ。哀しさの中で遊んでやがるよ、こいつ、つう感じです。
 それを堪能させてくれる一枚。今更なんだの旧盤だけど、いいもんはいいんだい。
 でも、古本市さん、ポリーニよ、べームなのよ、いくら何でも500円はない!
 
 これはPiuLentoさんの記事のトラックバックです。
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 通い続けて十一日、お医者さんが、もう金曜まで来なくていいと言ったですよ。毎日毎日、チャリ漕いで包帯替えに行かなくてもよくなったです。かぶれと汗疹ですごいことになりかけてたんで、とっても楽。でも絆創膏のとこが死ぬほど痒い!
 
 これから、相手の保険会社に書類送るんだけど、後悔してることが二つ。
1.何で、SOHOと素直に答えず、知り合いの会社に頼んでそこの契約社員ってことにしなかったのか。(休業補償が違うの。SOHOってね、ほんとに無職扱いなの、働いてるのに)
2.何で、事故った後、私のサイバーショット(事故時、バッグに入れてた)を壊しておかなかったのか。(今日日の携帯にも画素で負けるんだよ、補償でもっといいのに買い換えられたのに)
 同居人に言ったら、損得の問題ではなく、どっちも詐欺なのが問題だと言われた。

 でも……自転車乗ってるみなさん!
 おじいちゃんがおばあちゃん乗せて運転してるバンの側には、絶対、近づかない方がいいです。次にどんな動きをするか、予想がつきません(きっと当人も、予想してハンドルを切ってはないと思う)。おまけにその手の人は依頼心が強いもんで事故った後はおろおろするだけ、血を流してるこっちに縋るような目を向けてきます。こっちが足を引きずり引きずり、仕切らないといけません。でも、面と向かって罵るわけにもいかない。一言でもきついことを言おうものなら、わらわら集まって来る暇な野次馬のおばさん連中に「かわいそうなご老人を虐める悪い女」という目で見られます。 ……思い出したら、すっごく悔しい。私は被害者だっ!
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がおーって……どう見ても、お笑いだ。

デザインも、ポーズも、大マヌケ。
MONSTERって何も考えてない名前も泣かせる。
しかも胸に大書するな。
正太郎に名前で呼んでほしいのか、君は。

でも、これが画面で動くと、かっこいいの。
迫力あるの、今日日のハリウッドCGより。
さすが今川泰宏。早く次のDVD出ないかな。
みんな、騙されたと思って観てよ~。
そこのおやじに燃えるあなた、
息子さんをお持ちのお父さん!
はまりまっせ~。

鉄人28号公式サイト
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そりゃあさ、美周郎だけどさ、美形キャラだけどさ。でもさあ、君も一応は武人なんだから、アイシャドウは見逃すとしても、「真三國無双3」じゃあノーズシャドウ+チークで、真っ赤な口紅ってのはどういう類の嗜みなのよ。前から星組男役してたのが、今や倒錯も地に足ついちゃって、それじゃ新宿二丁目だよ。あんた、誰と張り合ってるの? 横でますますジャニーズ化してく陸遜?
 これ、中国、知らないのかな。知ってたら、何で怒らないんだろう。曹操が転生して「爆乳少女」(ナイスな言葉)になるアニメには怒るくせに、周瑜のゲイバー・メイクはいいのか。
 
 なんか、コーエー、誤解してないか? 数百人単位でばったばったと人を切ってく爽快感が売りのゲームのキャラに、何であんなに宝塚みたいな厚化粧とコスプレが要るの?
 
 こないだの「戦国無双」では、チャン・ツィイも真っ青のロンゲの明智光秀(同居人曰く「豪雨の中でもさらさら♪戦闘中でももさらさら♪」)、西洋式甲冑着てくるんだもん。くるくるおめめにヴォリューム・アップ・マスカラ塗り込めた森蘭丸(あやや似)としっとり絡んじゃうんだもん。蘭丸ったら、太股も露わに光秀の腕の中で死んでくし。
 信長は信長で、これまったトンカツソース煮詰めたみたいに濃いし(奥さんの濃姫は暴力バーの姐ちゃん風で、信長の血を舌で舐めたりする。黒澤だってこんな風にパクられたくはあるまい)、そいで、指で蘭丸の顎つまんじゃって……さすがの私も消化不良を起こすぞ、これは。
 そんな露骨に「お好きな人にはたまらない」キャラにしてどうするんだ、コーエー。やおいの人だってそんなに単純じゃないと思うよ。……いや、単純かも。
(茶髪で剣玉振り回す「うっきゃっきゃ」お市とパツキン長政は、夜中にドンキでお見かけしそうなご夫婦。私が浅井家の末裔なら、告訴も辞さないと思う)

「戦国無双」のこゆいキャラはこちらで。 →コーエー公式サイト
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塵よりよみがえり  レイ・ブラッドベリ

 といっても、これ、アメリカ版は71年、手元のも集英社文庫82年版を5年ほど前に古書店で見つけて買ったもの(藁)。
 私が一番、ブラッドベリだったのは中学の頃だった。ちょうど、かの「ライ麦畑でつかまえて」症候群と同時期に発症し、友人間を野火のように広がったが、高校に入るとみんなバラードとかW・ギブスンとかに浮気を始め、古い男は棄て去った。
 私もその口だけど、ブラッドベリから、P・K・ディックとS・キングという今に至るお馴染みさんへの道が真っ直ぐに伸びているのはまちがいない。ここから歩き出して、私はこの二人と出逢った。
 
 んで、この短編集、Long after midnight、いつもながらブラッドベリはタイトルがうまい。(昔の早川や創元推理のタイトルはどれもこれも秀逸だった。今、庵野のアニメや某ベストセラーにぱくられてるのがいい例だ。どれもこれも、小遣いの乏しい中坊の購買意欲を痛切に刺激した。だって、そういう本は借りる本じゃなく、買う本だったから)
 その中で、私が今でも好きなのは、「幻想と耽美と恐怖」の作品じゃなくて、むしろ、O・ヘンリー調のちょっといい話、とでもいうべき一編。

「板チョコ一枚 おみやげです!」
話は、夏の始まりの在る日、老神父(「いわば水彩で描かれた古風な僧侶」)と、その教会の告解室に座った一人の青年との出会いから始まる。青年は超肥満のチョコレート中毒患者。それを何とかしてくれと言われてもと、神父さんも最初は戸惑うんだけど、この青年が心から救いを求めていることを知り、熱心に会話を始めるようになる。このあたり、告解室での会話なので、相手の姿は見えません。ただ、椅子の軋みとチョコレートの匂いで、彼が救われてゆくのが暗示されている。
 何せ神父さんも年だし、キングの言う小文字の罪(姦淫とか自涜とか)を繰り返す信者に疲れ果ててた。けど、この青年には自分がしてやれることがあると知り、生きがいを感じ始めてたんですね。そのあたりの感情を、昔の思い出と絡めて情緒的に綴るあたりはブラッドベリの面目躍如というところ。
 さて、夏の三ヶ月間、ずっと話を聴き続けた神父さんの努力のかいあって、最後に青年は体重も軽くなり、チョコレートも断てるようになった。そして、旅に出ると言う。(ここでの青年の最後の告白というのが笑えるのだが、言えない)
 神父さんはよかったねと口では言うが、すごく寂しくなる。この夏は楽しかった。聖職者にとっては、自分を真剣に求める声があり、それに答えることができたというのは、この上ない喜びだものね。なのに行くなんて、ひどい!とか言いそうになる。
 でも、止めるわけにもいかない。そうこうするうちに青年は一つ約束をする。
 世界を回る間にローマに寄ったら、何か品物を買って、それを法王様に祝福してもらう、それをお土産にいつかまた来ます。そして、青年は行ってしまう。神と共に在せという言葉どおりの意味で、Good byeと言って。
 ……やがて、年月を経て、神父さんは本当に年を取っちゃって、それが、在る日……と、この後は言えない。それだけは言えないわ。ともかく、いや、いいんです。甘ったるいけど、いいんです。

「私たちはもう赦しあいましたよ。それが人間にできる一番立派なことです」 
作中で、そう神父さんは言う。私は、そういうことを大声で言いたがる人に言われても、あたしゃあんたを赦した覚えはないよと思うけど、小さな古い教会を一人でずっと守ってる、こんな神父さんに言われたら、信じられる気がする。あの人とあの人とあの人も赦せそうな気がする。私の罪も赦してくださいと、素直に言えそうな気がする。気がするだけだけど(藁)。でも、「たまに」でもそんな気になれる方が、ずっとなれないよりはましではないかとも思う。
 信仰と神を問う大作よりも、私にはこの掌編の方に強く、「愛」を感じる。そのことでセンチメンタル・フールと言われたって、いっこうに平気だい。
 
「とうに夜半を過ぎて」レイ・ブラッドベリ著・小笠原豊樹訳 集英社文庫
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 10年ほど前に買ったこどもをテーマにしたアンソロジーの写真集、筑摩書房刊、川本三郎*1は著ではなく、編集・解説です。
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 子供の写真といっても、お天使様というか、「この汚れない瞳を!」調ではない。
 遊んでる子、一人でぼーっとしてる子、みんなと一緒の子、怒ってる子、泣いてる子、笑ってる子、やさぐれてる子……と、こどもという生き物の相を捉えたものなのだけど、一つだけ共通項があるとしたら、編者が書いたように、
「家族のそとにいるこども」 ということだろう。

 どの頁にも、ママとパパといっしょではっぴー、つうか、幸福に弛緩しているこどもはいない。どの子にも、どこか軽い緊張感があり、どこか毅然としたところがある。朝日新聞に説教されないでも、この子たちはもう、立派に一個の人格である。
 
 私は元々、「独りでいるこども」にとても惹かれるところがある。この本も、この表紙の女の子の背中に惚れて買った。
 これを見て「初めてのおつかい」と誤解する人もいるかもしれないけど、違うんです。あんな、こどもが泣くのを期待し、それをみた親がまた泣くという予定調和で作られたものじゃない。今時の「何でもいいからともかくカンドーしてともかく涙を流して、癒された気になりたい私」をあやしてくれるようなものじゃない、そう思う。
 この子は、独りだ。おつかいかもしれないけど、この子は「初めて」じゃない。こんなに小さいけれど、ちゃんと自分の「仕事」を果たしてる。
 そして、この子はどこかで、この孤独という贅沢を享受している。
 
 こどもだって一人になりたいのだ。
 
 知り合いのこどもさんの一人に、まあ、見事に囲い込まれている子がいる(今は小学二年生かな)。こういうご時世だから仕方ないんだろうけど、親がいかなる時も目を離さず、お休みの日もいつでも一緒だ。
 私は躊躇いがちに言った。あのさあ、遠くでちゃんと見ててあげて、絶対安全ってとこなら、すこおし一人にしてあげたら、放っておいてあげたらいいんじゃないかなあ。
 ぴしゃっと音がしそうな答えが返って来た。
「この子、ちょっとでも私と離れると寂しがるのよ。それに、こんなに小さいのに一人になんてできないわ。あなたには自分のこどもがいないでしょ。だからわからないのよ」
 そういうとき、私は黙る。黙るしかないから。
 けれど、心の中で、あなたが離れたくないんじゃないの?という問いを噛みしめている。寂しいのはその子じゃなく、あなたじゃないの?という問いをすり潰している。

 私は親にはなれなかったけど、こどもだった時期は長いから(今でもかなりそうらしいし)、こどもの気持ちは何となくわかる。そして、私は、「自分のこども」じゃなくて、こどもが好きだ。私とは違う時間軸に居る、成長する生命の塊、が好きだ。

 今のこどもには、どれだけ「独り」でいることが許されているんだろう? 今の状況を考えれば、ほんとうに難しいことかもしれない。けれど、小さいうちからほんとうの意味での「孤独」という贅沢を学ぶことがないから、個室を与えられるとその贅沢をどう享受していいかわからず、面倒くさいから単なる引きこもりに行くような気もする。
 何故って、孤独とは実は贅沢なもので、そこは、個性という、ある意味、荷厄介なものを育んでしまう揺籃だからだ。
 
 この写真の中のこどもたちは「まだ遠くにいる」。そのうち、家族の元へ「ごはんはあ?」と帰って行くのかもしれない。あるいは帰る家もなく、一人、空きっ腹を抱えて孤独な寝床へと帰るのかもしれない。それぞれの人生があり生活があり、それぞれの縛りがある。 でも、この写真の中に封じられた一瞬、こどもたちはまだ遠くにいて、孤独で、自由だ。
 今日も、私の窓の下では、近所のこどもたちが自由に、元気に明るく殺しあっている。ついさっき殺された子が、今、生き返って笑いながら走っている。
 tokyo workerさんじゃないけど、生き残れよ、と思う。何があろうと、お前たちは生き残れよ、と。そのために必要なら、家も親も家族も棄てていけ。
 
追記;友人とこの写真集を見ていて、好きな写真に微妙な違いがあった。彼女は同じ「遠くにいるこどもたち」でも数人のグループで写っているものを選び、私は物理的に一人の子を選んでいたのだ。二人で検討した結果、彼女は三人兄弟の長女で、私は一人っ子、お互いの原風景をそれぞれ投影していたようだ。
追記2;この写真集の中で一番好きなのが、牛腸茂雄さんという早逝した写真家の作品。「座間(神奈川)」とキャプションのある写真で、夕暮れか夜か、深い霧のかかった中、こどもたちが、さらに深い霧の奥へ走ってゆく情景を写したものだ。
 霧の中にぼんやり球場の明かりが見え、試合かな、お祭りかな、とも思うのだが、写真からは「ハメルンの笛吹」とかブラッドベリの初期短編を思わせるような、透明で凄みの利いた不安が匂ってくる。この子たちはもう、「ここ」には帰って来ないのではないかと思わせる薄ら寒さだ。
 この写真から、私は牛腸さんの写真集を買った。それもとってもとっても凄い写真集なんだけど、それはまたいずれ書きます。
(そんな風に、一枚から楽しみが広がるから、アンソロジーはやめられない。特に写真集は高い上に、洋書は厳重包装なので、私はこういった編集版から入ることが多い)

アマゾン;「こどもたちはまだ遠くにいる」筑摩書房
(よく行く美術・写真関係の古書店で聞くと、これは一般の写真集よりは版が出てるから、安く入ることが多いそうです。そっちなら1500円から2000円。なおシリーズで荒木編・解説の「恋する老人たち」もあって、こっちもお勧め)
 
*1川本三郎というのは、私にとって一時どーんとはまり、すぐにすぽーっと抜けて、以来、読んでいたことを気恥ずかしく振り返る人だ。だが、どうも選択傾向に重なりが多くて、解説や後書きで出lくわすことが多く、その都度、私は複雑な気分になる。悪い書き手じゃないんだけど、どうも、あの何かと「少年っぽさ」を前に出す芸風が恥ずかしい。
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