腐れ縁の幼馴染みが、ここでブログ・デビューいたしました。
 いえ、単に私がけしかけたから(藁)。よろしければのぞいてやってください。

 ときどき絵日記

 パソコンに関しては、私の弟子ですが(覚束ない師匠に黙ってついてくる、従順なやつだ)、元々、絵がすごくうまいやつなんで、ここのプロフィールの絵も、NAKATAのプリンとロールケーキ持って行って、描いてもらったもんです。(ところで、私、左手にコントローラー、右手にDVD持ってんですけど、わかります?) 
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 うちの同居人(要するに夫ですけど)は鼾がすごい。寝相もすごい。
 そして、そういう奴にかぎって、寝付きがすこぶるいい。
 私はといえば、すこぶる寝付きが悪い。眠りも浅い。暗くないと×、気になる音があったらもう絶望的。小学生の頃から、翌朝、早起きしなければいけない時は、精神集中、ほら指先からじわじわと力を抜いてえと、全身リクライゼーションの自己暗示をかけ、必死に眠ってきた。メリーさんの羊もストレッチも牛乳もカモミールティもアイマスクも耳栓も、端から試してみた。手を出してないのは合法非合法の向精神薬だけだ(同じ体質の母は合法物に手を出した)。

 だが、そんな果敢ない努力でやっとまどろみかけたところへ、傍らから、ぐごー
 悪魔の声が、壊れた配水管のような騒音が響き渡る。
 暫く耐える、数時間は耐える。とりわけ今は、収入格差もはなはだしい、被扶養者であるから黙って耐える。そのうちに、軽く揺すってみたり、こっそり寝相を微修正してやったりする。敵は眠ったままエラそうに、ふん、と鼻を鳴らし、なおもぐごぐご、がーがーと爆音をまき散らして、健やかに眠りの海を漂うておられる。

 そして、私は眠れない。こうなるとどんな小細工を労しても眠れない。だんだん、哀しくなってきて、私愛されてないんだわとか実家に帰ってやるとかいっそ刺し違えてやろうかと思いながら、耐える。本とかだらだら読みながら、耐える(そうして読んだ本や漫画が、ベッド周囲で蟻塚になって林立しておる。ベッドから下りる時は気をつけないと、それにけつまづく)。そんな忍び難きを忍んでおるけなげな私の、耳の横ではやっぱり、ぐごすかぴー
 それでも、運がよければいつかは眠れる。悪ければ、独り、枕と掛け布団を抱えてとぼとぼと居間に行き、カーペットの上で丸くなる。すると、今度は外の階段を駆け上がる新聞屋の足音で目が冴える。そして、本式に本を読み始めるか、ゲームのスイッチを入れてしまい、翌朝、よろよろとベッドから起きてきた同居人を、コントローラを握ったまま凄い目つきで睨み上げる。リベンジなんて、せいぜいそれくらいだ。

 ……という、結婚以来の「夜の不幸」を長く続けてきた(何があろうと朝は笑って送り出せなんて、リアルな結婚生活に綺麗事は通用しない)。昼間は睡眠不足でうろついている(働いていた間は、会社のトイレで熟睡したりもした)。寝室を別にすれりゃいいんだが、ただでさえ、お友だち夫婦、盆と正月の夫婦とか言われているのだ。このまま別れて寝たら、ほんとうに私たち、ただのお友だちになっちゃうじゃないのよ!と耐えていた。
 
 それが枕一個で変わるなんて!
 みのもんたも、たまには真実を語るのね!(とすれば、筑紫哲也よりましか?)

 
 止まったよ! 止まりました!
 近所の上新電機のセールで買った「低反発枕」1個で、あの鼾が止まった!
 壊れたマフラーだか配水管みたいだった轟音が、風の高鳴り程度にはなった!(後、横向きに寝かせればベスト) NASAの技術力を馬鹿にしちゃいけない。ほんとうに状況は改善されたんだって。人間、諦めちゃいけない、と思ったね。
 
 さあ、後は眠りについた私の上に、どっかーん、と降って来る手足を何とかすればいいだけだ。抱き枕でも買って来て、それに縛り付けといちゃろか。
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 ケーブルTVにはディスカバリーチャンネルとゆー、一日ノンフィクション・ドキュメントばかりやってるとこがある(フォックス・チャンネルだと、一日『Xファイル』か『バフィー』をやっている)。そこのアジアン・アワーというシリーズで、北京をやっていた。
 オリンピックの建設ラッシュの中、北京の古趣豊かな街並み、清朝の貴族や大富豪が住んでた四合院(中国の住宅様式、中庭を囲んだ大邸宅)の屋敷や昔ながらの庶民の家が並ぶ路地、胡同(ふーとん)が取り壊されてゆくという話だった(どっかのCMで、長嶋さんのそっくりさんがご飯食べてたとこね)。北京市は現在の絶望的な住宅難からも、観光用にちびっとだけ残して、後は軒並み壊す腹らしく、不動産屋も大はしゃぎってとこ。前にNHKでもやっていたし、他のニュースでもよくみる。

 今や胡同は有名だし、観光ドル箱でもあるが、私が四合院の館を想うようになったのは、『花の影』という陳凱歌の映画を観てからだった。映画自体はコン・リーとレスリー・チャンの悲恋物だが、その濃さたるや「たん、たん、耽美の♪」と歌いたくなるほどで(撮影はクリストファー・ドイルだし)、お笑いを越えて不条理ホラーの域にまで達していた。
 閑話休題。だが、舞台となった水郷の館だけはうっとりするほど美しかった(だから、クリストファー・ドイルだし)。中庭をめぐり、部屋から部屋へと回廊を辿る古い家は、まるで夢から夢へと辿る浅い眠りの中を漂うかの如く、朧に遠く、美しかった。
 
 でなくとも、私だって、古い町並みが壊されるのはいやだ。昔ながらの住宅街だったうちの界隈でも、昨今、松と五月と沈丁花の庭がどんどんまがいイングリッシュ・ガーデンになっていく。それにうんざりして引っ越しを同居人に進言し、「なら稼げ」と言われている。
 だが、根がへそ曲がりだから、三十分間の放送中延々「美しい」「歴史的な」「これを壊すのは冒涜」とか聞かされ続けていると、待てよ、と思い始めてしまうのだ。

 残された胡同は清朝のものなんだろうけど、北京というのは、清の前は明、その前は元の都でもあった(山川の年表で確かめた)。元から明へ、明から清へと移り変わる時の中で胡同は完成されたのだろうが、同時に、王朝が変わる都度、やはり北京の景観は変わっただろう。「かつて」を悼む声をも押し潰し、新しい王朝は、新しい時代の主人は、新しい街並みを要求する。清の建国時には、征服者の満州民族が北京に流れ込み、建設の槌音を響かせたに違いない。その音は、明を偲ぶ被征服民の漢民族に取って、殺したろかと思うほど腹立たしい、冒涜の音だったのではないか。
 
 それも数百年たてば、古都の景観となっておさまる。往事は真っ新でぺかぺかだったろう壁も、古色蒼然としてゆかしくもなる。奈良の東大寺だって、建った頃は、今なら笑っちゃうくらいのヴィヴィッド・カラー、エキゾチックでモダンなお寺だったのだ。
 元来、東アジア人は、最近でこそ歴史的景観とか言うておるが、基本的に新しもの好きで、スクラップ・アンド・ビルドの人だと思う。特に日本人は「行く川の流れは絶えずして しかももとの水にあらず」だし、白木好きなのは表面を削ればぴかぴかに戻るからで、畳と妻は新しきを愛する。侘びさびも、古きものへの哀惜も、最新流行に弱いのも、禊ぎが済めば無かったことも、「世の中にある人と住家と、またかくの如し」、 それもこれもひっくるめての国民文化だ。

 「かつて」坂口安吾はこう言った。
京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かないと困るのである。我々にたいせつなのは『生活の必要』だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びないかぎり、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要と、必要に応じた欲求を失わないからである」(『日本文化私観』
 ……いえ、これは極論ですよ。私は電車が止まっても、法隆寺が燃えてもたいへん困ります。(余談だが、坂口安吾は、多感な学生時代に、背中の〈ラジカル〉の入れ墨で人を誑かす、やくざな教師みたいな作家だった。今は結構他人だが、まだしぶとく本棚に居る)

 しかし、現実に今の胡同の多くは、改修もされずに放置され、隅々まで住み荒らされている。革命後の住宅計画により、かって一つの大家族がゆったり住んでいた屋敷をさらに細かくわけ、何世帯もぶち込んだのだから仕方あるまい。この現状なら、滅びを悼む声の傍らに、掘削機とブルトーザーの唸りに併せて若く明るい歌声も上がるのも当然だろう。
 胡同に住む若夫婦は言った。ここは親戚もみんな近所で、大好きだけど、子供も居るし、部屋はどうにも足らない。何とか新しい団地に移りたいけれど、お金がない。取り壊し指定が下りれば、立ち退き料で移ることができるのに。
 こう言われると、部外者は独り密かに哀惜しているしかない。九龍城砦に続き(おいおい、並べるな)、また一つのアジア的迷宮空間がこの世から消えてしまうのだなと(だって、観光用の保存なんて木乃伊の展示でしょうが)。そして、安吾は言うのだ。
武蔵野の静かな落日は消えたが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り月夜の景観に変わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。(中略)我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としていても、我々の文化は健康だ。我々の生活も健康だ」(同)
 「かつて」の日本も、かくあれかしと思い、選択したのかもしれない。
 だが、今の日本の生活が健全だとは、私には言えない。それは景観だけの問題ではなく、結局は、私たちの実際の生活が、どこにも魂を下ろしていないからなのだろうけれども。
 
追記;どっちにせよ、「寂しい」とか「哀しい」つう感傷だけでは変わりゆく景色を留めることはできないんだけどさ。ヨーロッパの石の街を守り続けているのは、市民の「不屈の意志」だし。何せ、第二次大戦の爆撃で壊滅したワルシャワを、飛び散った石くれ一個一個広い集めて元のまんま建て直しちまうんだよ。これはもはや西欧的暗い情念、強迫観念の世界、西と東の「都市」及び「市民」概念の違いだ。
 あ、それと、坂口安吾をご存じない方、彼をただの進歩主義者とか開明主義者とか思わないでくださいね~。全然、違うから。
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2001年度日本作品を、今更どうしたの話ですが、だって、昨日、見たんだもん。
ストーリーについては以下のURLでどうぞ。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD32402/comment.html
すっごく単純に言うと、「70年代」的テーマパーク(20世紀博だっけ)に大人がはまって洗脳され、子供を置いていっちまう。残された子供は親を助け出そうと活躍し……てな話です。ついでにネタばれになるかもしんないので、嫌なひとは見ないでください。ボロクソ言ってるんで、私の感動を汚さないでって人も見ないでね、と。

 最初に、私は「クレヨンしんちゃん」が大嫌いだった。あれは大人が子供に大人の猿真似をさせて喜ぶという、まるで角米獅子のような構図だからである(ジョンベネの呪いだな)。 なら、何故見たか? 「お願いだ、頼む、映画だけはすごいんだよ、観てくれ」と長年の連れに言われ続け、ネットでもすこぶる評判がよかったからである。

 で、観た。そして、これ薦めた連れと、じっくりデイベイトしようと思った。
 これは一体、誰のために作った映画なのか? 
状況を鑑みるに、一応、お子様家族向けであろう。とすれば、要するに、ポルノ映画などで新人監督がやるのと同じパターンで、最低限のフォーマットさえ守りゃあ、後は好きでいいもんね、ゲージツもボーケンもしちゃうぞってとこか。で、褒めてる人ら、まじで聞く。
 これ、子供が観て面白いと、本当に思うのか? うちの子は喜びましたって言ったって、本当に、この「成長」ってテーマがわかっておもしろがってると思うのか?

……と、始めると、大論文ぶちかましてしまいそうなので、批判は別の一点に絞って書こう。
 この製作者たちは、実は、70年代という時代をまるでわかっていない。

 一体、あんたらいつの生まれだ? 悪の結社〈イエスタディ・ワンス・モア〉のケン曰く、あの時代がよかった、日本はあの時代に戻るべきだって言うけど、あんた、70年代に何を見聞きしてたの? 監督、調べてみた?
 「人類の進歩と未来と調和」の大阪万博に始まる70年代ってのは、前のめりの高度成長期がドルショックですっころんでどよ~んと不況となり、深刻な公害問題は噴出し、後の土地バブルで日本人の倫理を壊滅させる要因となる「日本列島改造論」が生まれ、ロッキード事件があり……と、戦後日本の矛盾と問題の全てが露呈した時代だよ。
 下町に蕎麦屋が走り、貧しいながらも人々は穏やかに明るくなんて、それだけの時代じゃねえんだよ。水面下でどころか、もう問題と歪みが毎日、あ~ぶくたったぁ煮えたったぁだったのよ。(その時代の青年像、今の引きこもりへの先駆的症状である青年像については、関川夏央あたりを読まれたし)
 その程度の歴史認識(おお、言葉が大仰だ)で、どうすりゃ「人間、いつまでも過去を見てちゃ=子供でいちゃ駄目! 前を向かなきゃ=大人にならなきゃ」ってな聞いた風なテーマで終われるの。どうすりゃ、今の大人への痛切なメッセージになるんだよ、作り手がぬるいのに。大体、ノスタルジーと子供回帰願望をごっちゃにしていて……とそっちを言い出すとまたきりがないからやめて、と。
 未来は現在の先にあり、現在は過去の上にある。その過去を正しく見ようとせず、そこで何があり、何が行われたかを検証しようとせず、己に都合のいい感傷的な記憶で振り返るだけしかできない連中に、未来がどうの大人になれのと言われたくはない。要するに、70年代ブームだしぃ~ってな根性だろ。それにしても、本当に少しでも調べた? 雑誌の70年代特集見ただけ?

 唯一、細かいのは冒頭の万博描写だが、じゃあ、あの「レトロな70年代」の町並みですけどさ。ありゃ東京あたりの下町をイメージしておるようだが、そうか? で、本当にそんなもんだった? 何、あのお洒落な同潤会風アパート、あれが東京にはどこにでもあったんですか、へええ。いしいひさいちの仲野荘ならわかるけど。
 大体さ、あの当時、「郊外」というものは既に生まれかけてたの。そこで育った子供はもう、近所の八百屋や魚屋じゃなくてスーパーマーケットで物を買ったの。蕎麦屋の出前持ちなんて日常光景じゃないの。そいでもって、田舎はといえば、もうトトロと大差なかったりするわけで、そんなの、『ウルトラマン』や『怪奇大作戦』でも観れば一目でわかることだ。

 つまり、あの元ネタは一部メディアでたれ流された「70年代的原風景のようなもの」にすぎず、架空の情景にすぎない。その元々舞台の書き割りであったものをまたパーチャルに再現しようってんだから、その安さたるやドンキ並というか(笑)。作る側も安いが騙される側も安い。高校で近代史やらないから知~らないってか? でも、思い出がある人、もう少しその思い出を大切にしたらどうよ。(ついでに、作者側は、そのへんの甘さを70年代博じゃなく20世紀博ってことにして、既にごまかしの手は打ってんだから、狡いよなあ)

 そう言う根性の製作者どもだからこそ、劇中、子供たちが、自分たちを捨てて過去へ走る大人たちに呟く、「どうして?」「なつかしいって何?」という当然の台詞をないがしろにして平気なのだ。
 作者はそれに答えるべきだった。そのなつかしさの意味がわからない限り、子供は単に、最後のしんちゃんの「大活躍」に盛り上がって終わるだけだ。それがわからない限り、それを越える(あるいは対立する)glowing upへの強い意志は生まれようもない。つまり、ラスト、大人をみ~んな退行させちゃう機械を止めるため、東京タワーのてっぺんまではい上がって来たしんちゃんが、「オラは大人になりたい」となど叫ぶ筈がない。(実際、家族連れで見た人の感想は「家族が一番」の方に集約されてる。そして、仮にあのくそガキがわかってたところで、子供にとっちゃんなもん屁でもないから、せいぜい、オラに親返せよ、オラに安穏と子供させてろよ、としか言わないと思うがね。そして、その言葉は正しい)

 作者は、無理矢理に子供に「大人になりたい」と言わせ、それが聞きたくてたまらなかった大人には力強く媚びた。だが、子供の正統な疑問、何故親は私たちを置いていったのか、彼らをそうさせた「なつかしさ」とは何なのか?は黙殺した。おい、子供の問いに、答えられる限りは答えるのが大人の義務だろう。それこそ子供向け映画の義務だろう。
 言葉で答えられないなら、描画で、風景で、その切なさを描ききるべきだろう。(キャラクターの絵質で言い訳するんじゃねえよ。今川の『ジャイアント・ロボ』や『鉄人28号』を見てみろ) ここで宮崎や高畑を出すのは、卑怯という前に、名前を出すだけあの二人に失礼な気がするし、私があの二人を全面的に評価しているわけではないが、ただ、『トトロ』で再現された昭和30年代に、普段、TVや映画で「あの頃」を観る度に一々あら探しする実家の母も唸った。『火垂るの墓』を観た野坂昭如は「ありがとう」と泣いた。
 過去を映像化するとは、再現するとはこういうことだ。なあ、実際にあれを観た人は、70年代を知らない人の方が多いんだよ。知らない子供があれを見るんだよ。
 あんたたちは、子供に、適当な嘘を教えたわけだ。
 
 結局、長々書いてしまったが、一応、言っておく。確かにこの映画、アイディアは悪くない。あのお子様向けのたるいカーチェイスを除けば、テンポもまあまあの方だ。私とて、途中、くすくす笑いもした。だが、それがどうした。
 アイディアだけよくて、アイディアにだけ頼って、それをきちんと実現できない、というのが日本映画をつまらなくしていると思う。「予想される顧客」にだけアピールするくすぐりで、「ある程度望める」収益だけを確実に得ようとする根性が、アニメを面白くなくしていると思う。
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 この間、2ちゃんをうろうろしてたら、古いスレに大阪叩きがあって、
 「東京に居る大阪人、何故東京弁喋らん!」つうのと、
 「大阪で標準語を話すことを毛嫌いするな!」つうのがあった。
 この二つの主張には笑ってしまった。(んで、ごめんなさい。今、調べ直してみたけど、どのスレかわからなくなって、リソースの提示ができません。ご容赦ください)

 私は、これはもう大原則として、どこの方言であれ、ネイティヴが喋るのを聞くのは好きなので気にならないのだが、確かに、関西弁は、かなり確信犯的に、営業戦略的に使われることが多い。(あの司馬遼太郎氏も「ものを断るときには関西弁を使う」と言われていた)
 そうするとあたりがやわらかくなるとか言われるのだが、実際は、言い様によっては独特の粘ついた感触が出て、圧迫感を感じる人も多いだろう。それに、生まれも育ちも関西圏の私でさえ、あの「大阪大好き、阪神命」ってな関西原理主義者には辟易している。何故、そうまで暑苦しく声高に「愛を叫び」たいのかと思う。

 というのも、私は、兵庫県阪神圏から一歩も出ずに生まれ育ち、父はこてこての浪速男だったが、マザータングの担い手たる母は関西圏外出身者の上、若い頃は東京で暮らした人だった。だもので、私が最初に獲得した言語は「イントネーション微妙な標準語」だった。
 その後、外部学習により、かなり関西弁よりに修正されたが、大学時代に友人から感染した岡山弁という存在もあって、部分的におかしなアクセントが残っている。さらに、ご家庭の躾として、シリアスなorオフィシャルな会話はアクセントはどうであれ言葉面は標準語ってのが、身に染みついてしまっている(これは阪急沿線在住者によく見られる傾向である)。

 んでもって、長じて後、会社勤めをして、入社後3ヶ月ほどたったある日、先輩(男、当時30歳くらいか)と普通に世間話をしていると、いきなり、きつい命令口調で言われた。
「あんたの喋り、その大阪弁なまりの標準語、すっごいむかつくし、止めや」 
 むっとしたり、恐縮したりする以前に、何を言いだすのか、この人は、と呆然とした。
 彼は大真面目だった。私が生意気だとかエラそうだとか言いたかったのだろうが(それは認める)、その理由を、彼は、態度が不遜だとか、敬語の使い方がおかしいとかいうことではなく、標準語を使うことだと指摘して怒ったのだ。

 まこと、関西というところは、プライヴェートでもオフィシャルでも、おおっぴらに人を嫌っていい理由に、「標準語で話す」が通用する世界だ。「えらそう」「気取ってはる」「自分をかしこいて思てはるわ」(*1)などなどの、時として言いがかりに等しい評価がつきまとう。
 さらにその党派制は内部にも敷衍され、神戸VS大阪論は歴史的命題だ。どころか宝塚VS伊丹、西宮VS尼崎、呆れる程ローカルなレベルでまで角突き合わして唾飛ばしあう。
 どれもこれも、結局は裏返った劣等感以外の何者でもないのがさもしい。人様のアイデンティティを誹ることで、必死に自分のアイデンティティを保とうとしているだけの、いじめの屁理屈なんだから、情けねえったらありゃしねえよ、本当に。

 でも、だからトーゼン、東京では東京弁喋れ、と言う「東京人」ってのも同じことなわけで、こうなると目くそ鼻くそだよなあ。

 ただ、この春、10年ぶりに上京して仰天したのは、地下鉄構内エスカレータ前の行列だった。ええ、エスカレータを歩く人と歩かない人をわけるための行列です。
 午後2時か3時くらいの全然混んでない時間帯だった、そのままみな適当に乗って、乗ってから状況に応じて場所を空ければいいだろう、それでスムーズに人は流れる。なのに、彼らは意固地に長い行列を作り、右側(だったと思う)に立ってエスカレータを登るため、ホームを塞いでいた。
 その様に、私は眩暈さえ感じた。

 元々、エスカレータの棲み分けは、いらちの多い大阪で生まれた現象らしいが、発祥地では状況に応じてそのあり方は刻々と変わる、少なくとも、長い行列を作ってまですることじゃないという相互理解がある。
 大阪には、街中の人の流れは、川の水と同じく、滞らせてはいけないという共通認識があると思う。街中で歩くとは、その流れに乗ることだ。その流れが、大阪の場合、至ってランダムで未整理である。複数の流れが渦を巻かないぎりぎりの線で錯綜している。だから、街を歩く行為は、自分がその中のどの流れに乗るか見極めることから始まるので、他都府県の方々が、大阪の街は歩きににくいと言うのも無理はない。でも、慣れればかえって歩きやすい街だ。

 翻って、東京の大行列だが、あれはどうも「原則論」の匂いがする。フレキシビリティに欠けているのである。真面目と言えば真面目だが、同時にそれは、現実的有効性より理想(と言う名の自己満足)を貫く方に重きをおく考え方の現れである、よーな気がする……と言っては言い過ぎかしらん。

*1 標準語に直訳した場合の「自分を頭がいいと思ってるのさ」とも意訳の「利口ぶってる」ともニュアンスが違う。生な声(それも陰口のひそひそ声で)で訊くと、その染みわたる悪意の重さと粘着性は相当なもの。議論の最中に、突然、「自分(二人称呼びかけ)、自分をかしこいて思てるやろ?」との問いかけで、切り崩しに使われる場合も多い。
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 先日、WOWOWでR.E.M.のライブを観た。DVDでも出ている、去年のライヴである(放映はDVDより3、4曲ばか少ないみたい)。
 「ああ、欧米で生き残るバンドってのは一にも二にもライヴ・バンドだあ」 
 と、当たり前のことに感じ入った。ここ十年、来日してくれない恨みをたっぷり込めて。

 確かに、R.E.M.の一つの頂点だったROAD MOVIEの頃(だから十年前だよ)、あの武道館で観た時の、異様にはりつめた空気とそれが弾けた瞬間の至福感、はもう無かった。マイケル・スタイプの眸の狂気もやや薄れ、風格と言えば聞こえはいいが、あなたも丸くなったわね感があるのは否めない。(初めて観る人には、やはり、ROAD MOVIEを薦める)
 演出にも相も変わらず派手さはなく、演ってる当人たちも、学生バンドがそのまま四十路になりましたってな、どこかインテリおたくな影をひきずる冴えない中年揃いだ(某洋楽サイトで「カレッジ・ロックの雄」と紹介されてたが、だからそれって何年前の話だ?)。
 でもまあ、それがR.E.M.なのである。
 なんつうんだろう、あれだけのビッグ・ネームなのに、自分たちが変わりたくなかったとこは、意固地に変わんなかったし、これからも変わらないだろう。彼らには、そういうある種の、飄々としながらも、揺るぎない佇まい(「スタイル」というより「佇まい」)がある。
 もっとも同居人に言わせると、そのあたりにどうも「頭のいい人の嗜みのよさとかそつの無さ」を感じて、俺は今ひとつ性にあわん、となるのだが、ともかくLIVE IN GERMANYの話。
 そんな柳に風の佇まいからは信じられないほど、演奏はたたみかけるようにタイトで見せる、聴かせる(これが「そつのなさ」か?)。いやいや、マイケル・スタイプ、声は荒れ気味だががんばってるぞ、頭は禿げたが太っちゃないぞ。ラスト、IT'S THE END OF THE WORD AS WE KNOW ITでドラムが刻めば、こっちも階下の住人のことも考えずに跳ねちゃうぞ。
 時節柄、ORANGE CRUSH(=枯葉剤)にえらい気が入ってたように思えたのは、私の深読みか、話題の大同団結ブッシュ下ろし興業〈Vote for chage tour〉ではWORLD LEADER PRETENDとか演る気か、それともIGNORELANDか(クリントンの就任の時には演ったって、いつの話だ)などと、ロートルの思いは様々に広がってゆく夏の終わりである。
 秋には新譜が出る、U2の新譜も出る、何かとめでたい。

 で、関係ないが、最近、ATOK17のユーザーサービスで、音楽家名辞書とかいうのをダウンロードした。そこでこの文章を打ってて、当初、「マイケル」と打つと、ATOKは即座に〈マイケル・ジャクソン Shift+Enterで変換〉と示唆してきた。所詮、JustSystemの眼中に元祖オルタナ系なぞないのだと思いつつ、「いや、好意は嬉しいけど他のマイケルだから」と無視した。するとそのうち、学習意欲の高いうちの辞書は、「マイケル」と打つと、「ふふ、覚えたぞ」とばかりに〈マイケル・スタイプ Shift+Enterで変換〉……。ミルズの方かもしれないだろうが。
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 というわけで、私は半隠棲者であるからして(笑)、めったにロードショーにもコンサートにも行かない。TVもケーブルとBSばかりで地上波はほとんど観ない。新聞も取ってない。当然、活きのいいネタなんて出て来るわけがない……と、開始早々から景気の悪い話だわ。
 いや、ケーブルでがんがん流れるから、最新「予告編」批評は得意になった。
 結論としては、しつこく予告編を見せられ続けると、八割の映画は観たくなくなる。
 
 「ビデオは好きか。おれは大好きだ。いつも借りて観る。映画館が嫌いなんだ。コッポラが何と言おうが知るか。『地獄の黙示録』は小さい画面のほうがいいんだ」
 これはアメリカ刑事ドラマの最高傑作、『ホミサイド殺人捜査課』で、マンチ刑事が言ってた台詞だが、わかる
 いえ、単に出不精の開き直りなんすけどね。映画館がなんかやだっつうのがあるのも事実。閉じこめられて、でかい画面とでかい音で無理無体に集中させられるのがどうもってのと、時々、横の客がすっげえ気に触ったりってこととかで。
 でもまあ、一つ言い訳すれば、SFX大作については、TVで観た方が、大画面と大音量にごまかされずに済む分、脚本や演出が、いわば監督や役者の力量がダイレクトに見えると思う。(けど、そうしてると、たまに映画館行ったり、ライヴ行ったりすると、何でも新鮮に見えちゃってさらにだまされやすくなったりするのが難)

 実際のとこ、私は、うちのTVで、うちのステレオで、洗濯物たたんだり、ご飯食べたり、仕事したりしながら、映画を見、音楽を聴いている。窓の外からはわらび餅売りの拡声器が響き、近所のガキが雄叫ぶ、傍らでは同居人がトイレに立ち、実家の母が電話して来る、そんなこんなの注意散漫な環境でも、ふと画面やスピーカーの前で正坐させられてしまう時があるから、映画ってのは、音楽ってのは、凄いもんだよなあと心から思う。
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 えと……ども、こんにちわ。最初なんでご挨拶をば。
 横にも書いてますが、今でこそ、ひきこもりおばさんの私ですが、遙か昔は所謂、総合職でございました。出張だ会議だとばりばり働いておりました。カルバン・クラインのスーツに身を包み、コーチのバッグを抱えて、残業後は夜の街で遊んでおりました。
 それが諸般の事情で会社を辞して幾星霜、その後も幾つか職を転々とした後、この一年は、宝塚~川西市半径二キロ(一応、その中に紀伊国屋とHMVとJoshinと阪急百貨店がある)を周回する日々、身なりはもはや言うに及ばず。おかげで母は泣きます、少しは出歩け、身綺麗にしろ、習い事に行けスポーツクラブに通え旅行しろと(注;パラサイトではありませんよ、私は)。でも、これがまた、わりかし心地いい日々だったりして(笑)。
 そういう、「閉鎖的で自堕落な」日々の中、「頭でっかち」に膨らんでくものを書いていきたいなあと思ってます。
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