「感動」という病
●子供に見せたい番組だそうだが。(web-tonbori堂)
このことに関してNHKには弁明の余地はまったく無い。以上、終わり(おい!)。
……終わってどうするの、わたくし。ただね、直接関係はないかもしれないが、toboriさんが書いてらしたことで、この手の番組について日頃考えていることがあり、そのことについて書きたいと思う。
何でも感動的な話だ、いいことだでは考えることを放棄していると思うのだが。
と、tonboriさんはおっしゃった。んで、私はといえば、ふと、こういう言葉が浮かんだわけ。
日本中を悪霊が徘徊している。それは「感動」という名の悪霊である。
……とは、マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』の有名な冒頭の句のパクリだが、今の版の訳では「ヨーロッパに幽霊が出る,共産主義という幽霊である。 古いヨーロッパのすべての強国は、この幽霊を退治しようとして神聖な同盟を結んでいる」とくる。
んで、今の日本では、その徘徊する霊を退治しようとする神聖同盟などどこにもなく、それを蔓延させようと努力してる人しかいない気がするんだわ。
TVで流される「感動」ドキュメントというのは、情に訴える音楽とナレーション(音楽は概ね、流用モノ)と、やたらアップにこだわるカメラワークという、どれもこれもこれでもかこれでもかとばかりに、「さあ、感動しなさい」とこちらに押しつけて来る。
そのためにどれだけのやらせが動き、どれだけの事実が踏みにじられているかなど、あの節操のない映像を見ていれば簡単に想像がつこうってもんでしょ。
まるで、こう言ってるみたいだもん。
ここまで道筋を作ってあげたんですよ、後はあなたが泣けばいいだけよん。楽でしょ? 簡単でしょ? 考えないでも、感動できるでしょ? 涙を流すのって気持ちいいですもんね。そりゃあしょぼいもんでも、一種のカタルシスですからね。さあ、泣きましょう。そのためにここまで盛り上げてあげたんだから、さあ、どうぞ。泣いてすっとしましょう。そうして。自分は「感動できる心をもっている」いい人なんだと再確認しましょう。
そして、それで泣く人は結構多いんだ。TVだけでなく、新聞だって出版だってそうじゃない。
みんな泣かせたがってるじゃない。みんな感動させられたがってるじゃない。それもおそろしくわかりやすい、後は泣くだけシステムで感動したがってるじゃないのさ。だって、売れるじゃないのさ、そういうもん。現実に、「プロジェクトX」だって視聴率高かったじゃない。
感動ってのは、一番売れる商品なのよ、今。
そいで、売りつけている物が「感動」だから、tonboriさんが書かれたように、出す側も受け入れる側も健やかな思考停止に陥っている。これも私がいつも考え込むように、動機があっけらかんと手段を正当化している。それってええんか?
だって、こうしてことさらな感情刺激モードに作り替えられた「感動」ノンフィクションってのは、何のこたない、あのおどろおどろしたニュースショーと同じだよ。ゲーム脳だの何だのさんざんゲームを悪者にしておきながら、福知山線脱線事故で「絵を盛り上げる」ために「バイオハザード4」のBGMを使う、あの恥知らずな「悲しみと怒りと不信」の押し売りと同じだよ。
そして、最近は「悲しみと怒りと不信」に対しては拒絶を示す人も増えて来てはいるが、やはり、大多数の人はまだそれを望んでいる、あるいは望んでいると信じるからTV局は流す。(でなかったら、何で、どのニュース番組もワイドショー番組も潰れないんだ?)
あの「感動」ドキュメントだって、それで泣く人が、そこまでされても泣きたい人が多いからそうやって流すわけだ。それにさらに泣かせよう(=さらに視聴率を上げよう)として、そこに意図的な作為が生まれてく。ああ、ステキな悪循環。
たとえば、「はじめてのおつかい」というシリーズがある。これは出始めた当初、私はとてもファンだった。ああ、ちっちゃい子にとってスーパーまでのほんの何十メートルが大冒険なんだなあ、その何十メートルでこれだけの感情の振幅を味わうんだなあと、それこそ涙ぐみながら見ていた。
それがどうなったかというと、みなさん、ご存じの通り。この番組は子供をいじめて泣かせて、それを見て大人が泣くというおよそ倒錯的なグロテスクな番組になりはてた。幼稚園児に、バス乗って二つも買い物こなしてから父親にそれを届けに行くなんて馬鹿馬鹿しいこと、そんなおそろしいこと、フツーさせるか、親が! フツーありえるか、そんなこと!
それもこれも、みんなもっとさらなる「感動」を求めたからだよな。もっと泣きたくなったからだよな。同じ刺激じゃ泣けないの、もっとそこんとこ押してくれる?
それだけ日々の生活がしんどいからかもしれない。それだけ、今の社会は殺伐としているからかもしれない。けれど、そうやって、古いゴムのように強張った心を、人に無理矢理揺すぶってもらって、そこからだらだらと生理反応めいた涙を垂れ流すことを、果たして「感動」と呼ぶんかい、という気がするがね、私は。
それじゃあ、感動もまあ、ずいぶんと安いモノになっちたんねえと思ってしまうわけよ。
そういう慢性的な「感動したい病」患者を相手にし続けて「ともかく感動させたい病」患者になって、つうかイタチごっこの繰り返しで病状を悪化させていって、どっか感覚の壊れちったクリエイターの作るものなんて、ホントの意味での感動なんてこれっぽっちもあるわけないじゃないか。
感動というのは与えられるものではなく、自分で見つけだすものだ。
先日、私はマーシャル諸島の漁民が使っていたという海図の写真をアップした。それは見るからに摩訶不思議な、地図とは紙に書いてあって東西南北があってという私たちの今の常識からは想像もできない「海図」だった。布巾掛け?という言葉があったが、それが一番近い(壁飾りという気もする。カードさして眺めるのに便利そう)。
それに感動してくれた人が居た。その人は、そこにこめられた、西欧近代の思考とは無縁の、しかし負けずに深い人の叡智に感動したんだと思う。海の地図というのは、こういう形で表現したってかまわないんだ、この海図だって使えるんだ、マーシャル諸島の人はこの海図を頼りに海を渡り、生活を営んで来た。そういう風に、自分の知らない経路を辿り、洗練されていった人の知恵も、世界にはいくらでもあるんだ。
面倒くさく言うなら、そういうことだろう。そして、TVの安いドキュメントのこれでもか音楽もナレーションも無しで、その人は自分で、一瞬でその道筋をたどれた。
感動できる心って、こういうものだと思う。毎日の生活で何かを発見したいと願う、弾みのある心だと思う。
大学時代の同級生で、学科一の秀才だった男がいる。K大の院に進み、今ではどっかの教授様であろう。そいつとある日、学校の木陰のベンチに座って話し込んで時だ。私が大学に行くのに、みんなが使うバス通りではなく、川沿いの道を歩く方が面白い、毎日、川の流れも違うんだぞ、春になると増えるんだ、面白いなあと言ったら、彼もそうだと言って、こう続けた。
「あの○山もこっちからなら見れるだろ。あれだって格好も色も、毎日微妙に違うんだよね。そいで、春のある日、二倍に膨れ上がってたりするんだ。一斉に葉が吹くからさ。それで俺は十分、半日は感動してられる。
他にも、例えば、こないだ、お前と大議論して俺が完膚なきまでに勝ったやんか。それが次の日、ガッコ出て来たお前がまた俺に議論ふっかけて来たろ、そいでもって前の日よりずっとすごい理屈持ってきて俺を圧倒したやんか。あんとき、そりゃ悔しかったけど、俺は結構、感動したね。この女、ひと晩でこれだけ考えてきやがったな、畜生って、感動したね。感動したから、明日は俺が息の根止めたるとか思ったよ」(←その通り、私は息の根止められて、悔し涙にくれた。およそ広範囲で深度の深い知識持つ彼とわたりあうのは、院生でも難しかったろう)
彼はそう言って笑い、最後にこう付け足した。卒業旅行に行くのが流行っていた頃だった。
「わかんないんだよな、何で、みんなそう海外とか遠くまで、一々なんか探しに行くんだろ。いや、そうしたい人はそうすればいいんだけどさ。俺は面倒臭がりだし、俺にとって感動ってのは、毎日の道ばたに転がってるのを探す方が面白いんだ。そりゃあ一個一個は小さいけど、ためればバカにならないからさ。俺はちびちび楽しむ方が好きやしな」
(余談だが、この辺の話は、yalingさんのおっしゃる「本当の意味でのゆとり」の問題とも絡んでくるような気がする)
感動はさせてもらうもんじゃない。自分でするもんだ。つまり、感動ってのは能力だ、と思うんだわ。だもんで、「プロジェクトX」のみならず、あの手の「感動ノンフィクション」を見続けている限り、その貴重な能力は鈍化し、摩滅していく一方だと私は思いますです、はい。自分で揺すぶらないで、人に揺すってもらい続けてりゃ、そりゃ古いゴムみたいになるでしょうさ。
足若丸や金魚運動器でしなやかな筋肉はつきません。
ところで、TB元の記事中の
「NHKには、総力をあげやっていることには無法がまかり通る体質がある。あんな美談はあり得ず、NHKが取材に来れば誰でも協力してくれることを悪用している。海老沢時代が生み出した体質。それを治すための改革なのに、反省もない。こんなことではNHKは潰れる」というのは、NHKのみならず、全てのマスコミに言えることだよな。
正直に言や、自分で記事書いていながら、背筋に冷たいもの来なかったか、夕刊フジ?という気さえする。いや、NHKの権力ってのはすごいんだ、民放や、ましてや俺たち夕刊紙なんかの比じゃない、とくるんだろうが、夕刊フジであろうが、一般の人には「新聞記者」だよ。勝手に思いこまれてる権威を背負ってやってくることに代わりはなかろう。そいでもって、事実の確認がおざなりであるだけでなく、さりげに創作入れることだって、今じゃどのマスコミも平気でやってるよ。NHKがやって大騒ぎになるのは、NHKが徴収料を取ってやってますんで、そういうことしません、しない筈だって信仰があったからだよね。
(んで、NHKが何かやるときの叩きっぷりを見ていると、他の全マスコミはNHKのそういうとこが憎くて憎くて、鼻について鼻について仕方なかったんだろうなあとしみじみ)
んでも、朝日だろうが毎日だろうが読売だろうが産経だろうが、そしてその系列TV局もみな、「誰でも協力してくれることを悪用」し続けている。そして、「こんなことではマスコミは潰れる」
この手の問題が起こっても、そういうマスコミ全体の危機感ってのがあんま感じられないのね。朝日の問題、NHKの問題ってことで片の付く問題じゃねえやん。ホント、マスコミは人にだけ危機管理求めるから嫌よ。
追記;
1.じゃ、どんなドキュメンタリが私はいいと思うのかってことについて、書いてみた分が、HPにあります。よければお手透きの時にでも読んだってください。→●「子どもたちをよろしく」
2.この日々のささやかな発見の「感動」について冷静に知的に分析した本がある。精神分析医の春日武彦さんの本。ただ、彼は私がファンになるような学者さんなんで、「感動」という言葉のの価値下落にうんざりしてるせいか、それを「幸福感」に結びつけて書いてます。あ、おたれな専門用語羅列してわかったげな気分にさせてくれるよな、そういう芸と志の浅い方じゃないすから、安心して読んでね。→●「幸福論」(春日武彦/講談社現代新書)
も一つ、師匠のエントリが出ました。ええ、私は師匠の猫です。→●既製品が好きな日本人(とある店員のぼやき)
業界の構造分析ならこっち→●テレビ、虚構と現実(Mの裏日記)
●この物語はフィクションであり・・・(ゑびす屋ぽん子の滑稽新聞)
他にもTBしてくれたところ
●NHK、「プロジェクトX」で謝罪(りゅうちゃんミストラル)
●NHK「プロX」で、またも取材相手が抗議する事態が発生する(松浦晋也のL/D)
●「感動」という病(PLAYNOTE)
●Impressions , be impressive .(空色日記)
●コラムたち。(カミザレ)
番組や紙面構成に関しては所詮エンターテインメント、と思っています。世の中素直に受け止めてしまう人が多いのが問題かも。
感動というのはごくごく個人的な感情の一つなので、それをマスに対して提供することそのものに無理があるような気もしますね。
「万国の視聴者よ、団結せよ!」
だったかな?
見ていないわたしは「NHK!なんで止めんのよっ」って感想しかないですけどw
「心の時代」なぁんて言われて幾星霜、新聞のテレビ欄に「感動」の文字がひとつも無い日はありませんね。
ベタベタと甘い人口甘味料で侵された"感動"番組よりも、
なにげない、しかし冷徹な視点からのドキュメンタリィのほうが感動する場合が多いです。
「感動する」ということには多分に「想像力」が加わっていると思うのです。
熱転写プリントみたいに押し付けられ、コピーされた画面ではなく、
人それぞれの「心に描く画」があってしかるべきだと思うし、
またそれを作り出す想像力もあってしかるべきかなと。
変なところで感極まるところの多いわたしですがw
それはそれでいいかなって思います。
だって、例えばテレビの前で1億人がいっせいに涙ぐむところを
想像してください・・・・気持ち悪くないですか?
ココに答えがあった!
……あ、違うかな?答えを探すヒントかな???
自分が「どう思うか、どう考えるか」は自分ですもんね。
イラクの邦人人質事件(2件目の方)で「自分探し」が言われてましたけど、「自分」は探すものでなく「作るもの」だと思うので、ちょっとヘンな気がしてたんです。
「感動」もそうなんだなぁ〜。
と、ワザと持ち上げようとする底意地の悪いボク。で気づいたのだが、個を確立した大衆というその意の相反した状態でなければ、健全なマスコミは育たないという矛盾。しかしそもそもマスコミは、匿名性を帯びた大衆しか作り出せない。
諸外国はその辺のところ、どうなんだろうなあ?うまく機能してんのかいな。次ぎの人↓。
基本的に言えば同じ人間ならばみな心のどこかで
同じ「音」に共鳴する音叉のようなものがあると思うのです。
ただいくら心に響くコードでも「耳元でガンガンと」鳴らされると
不快に思うってことなんじゃないかと。
一番嫌なのが製作者側が「響くに違いない」って考えている、
その「違いない」の部分なのかなと。
これは「わかるはず」、「わかってくれるはず」、「わからなきゃおかしい」
っていう閉じた共同体にもつながりそうなので嫌w
そういった「閉じた共同体」から外れたところ、
「暗黙の了解事項」を解体してきたところに
「感動」の所在があるんではないでしょうか。
(うー、なんだか日本共同体論になりそうw 次の方へプレッシャーっ!?)
諸外国ではブロガーがマスメディアを変えるとかよくあるのは自己主張を良い意味でも悪い意味でもするのであってそれがメディアへの抑止たりえているというのも最近ブログ論のようなもので目にしますな。
ということで次の方へよろしく(^^)
レスは明日、まとめてつけます。ちょっとこの話の成り行きがみたいなあっ……てここで終わったら悲しい(藁)。
積極的なものであると思うんです。
少なくとも垂れ流しの電波を常に受信して
さらに、見るでもなくテレビをつけている方々にとってのテレビ番組よりは。
見る、聞くは、誤解を恐れずに言えば単なる
「情報の受信」であって、
それが、いまのテレビ番組において、かなり受動的な動機で行われているように思われます。
ブログがマスメディアを変える、それはいい事なのでは?
まあ、ブログとか無かった時代でも、ネットにつなげば世界中の情報を受信でき、世界中に情報を発信する事が出来た。
発信した情報を、どれだけの人が見るか、は分からないけれども、
自分で主体的に情報を受信し発信するメディアが身近にあると言うのは、恵まれた環境のように思う。
そんな中で、マスメディアに対して抑止力を個々人が持てると言うのは、希望に繋がる。
そんな事を考えたときに、
「全く、最低に汚ねえ・・・」
などと、J・Pベルモンド的なセリフを吐きたくなるのです。
そういえば、私の敬愛する押井守氏が
「最近この業界に入って来る若者が、ゴダールを知らないんだよね」などと言っている記事を読んだりしました。
受動的な感動しか知らない人は、少なくともゴダールを見てかんどうは出来ねえんだろうなあなどと考える。
あ、次の人に渡すタイミングを失ってしまった・・・
「にんげんドキュメント」のほうが演出が少なくて見やすいです。なかなかいい番組ですよあれは。
わざわざTVで感動しなくても日常に感動は一杯ありますよね 感受性の強弱でしょうか? しかしアメリカでもお泪ちょうだい映画のほうが人気だというしこの殺伐とした時代「愛 情熱」というテーマで感動したいんでしょうね わかる気もしますが・・・
感動といっても薄っぺらくなってきていると思います。涙流した数分後にはもう忘れてたりして。ドキュメントという娯楽で数十分間感動して涙を流しすっきりする、みたいな。
最近観てませんがフジで深夜にやっていた『ザ・ノンフィクション』は感動というよりかなり痛かった記憶があります。
精神的に不安定な時は観ないように避けてました。
所詮娯楽、されど娯楽、人はパンのみにて生きるにあらず、という辺りが勘所ではないかと思うんです。感動というのは、他の人も書いてますが、個人的行為で、「万国の視聴者よ、感動せよ!」で日本全国が感動してしまうというのは確かに、気持ち悪いですね。
★ta_ch1967さん
そう、まして、ひなちゃんのような「イキモモ」は、なんて30分見てれば30分分きっちり感動させてくれると思います。
★姫ちゃん
今回は二度の登場ありがとう(藁)。
>「感動する」ということには多分に「想像力」が加わっていると思うのです。
熱転写プリントみたいに押し付けられ、コピーされた画面ではなく、
人それぞれの「心に描く画」があってしかるべきだと思うし、
またそれを作り出す想像力もあってしかるべきかなと。
こう書かれてしまうと、お姉さん、何も言い足す言葉はありません(藁)。万国の視聴者が一斉泣くのがきもいってのは↑に書いた通り(藁)。ただ、それを見てまた感動する人もいるってことも事実ですし、そういう現象だってあり得ると思うんですよ。でも、それが「自然に」起こったなら、それこそ奇跡の領域って問題でしょうね。
怒りとか感動というのは個人に属するもので、その個人のモチベーションにはなるんですが、それが「正義」とお手々繋ぐと、どっちに転んでもアブナいなあとは日夜思います。正義というのはかなり性悪なしろもんじゃねっかとか。与える側と受ける側に関しては完全に鶏が先か卵が先かではないですか?
★mo_uraさん
毎度ありまとーございます。感想はそっちに~♪
★manyanaさん
>自分」は探すものでなく「作るもの」
あ、そうです、そうです、そっちもそう! そうなんですよね。カンドーであれ自分であれ、理想のなんとかであれ、探すんじゃなくて作るもんなんだってのが、どっか抜けてます。「探し続ける」って、聞こえはロマンティックだけど、何か違うだろ何かって思うんですよね。(あ、今、U2の歌に喧嘩売ったような気がw)
あ、どうも、はじめまして。こんなとこですがよろしくお願いします
>感が動くと書いて感動と言うからには、普段もってる価値観からは見えなかったものが現れたときの感情をさして使うべきなんだと思います。
おっしゃる通りです。こうなってくると、最近の言葉に関する無神経さという方にも頭が行きます。おっしゃっている「ずれ」と「こび」をうまくきりかえながら、少しずつズレの方へズレの方へ(ただし、その「ズレ」の方向性が必ず正しいわけではないけど)ベクトルを向けているのが、一級の作り手ではないかと思います。もっとも、おっしゃったような意味での、「感動」の本質を弁えたる作り手なら、どれだけ媚びてもかまわないと思います。通俗もまた、一つの偉大な才能ですから。
★ferost-seaさん
なんか、森と海さんのイジメってピンポイントついてて、ツボ刺激みたいに気持ちよくなってきちったよ。もっといじめて(大藁)。
ええとね、海外の問題については海外でのドラマ状況とか、mo_uraさんのTB記事に書いてはります。あちらの方がきちんとしてる。ただ、それは後々の話に続くように、最終的に個の問題に収斂するだよなあ。
関係ありませんが、私ピロシキ好きです。そいで、映画だけでなく、あらゆる場で感動病は蔓延してると思います。人間関係でもそうです。んで、私はこれ、団塊の世代というか、戦後初の世代対立問題を大きくさせた世代に絡んでくる気もします。
★姫ちゃん
音量の問題はよくわかりますね。感動についてはやはり、個人的領域での幅が大きすぎるのだ、と。そいで、共同体の暗黙の了解を打ち砕く、というあたりはぴろしきさんの「従来の価値では見えなかったものが見える」に繋がるなあと。問題はその個人幅がわかってる人とわかってない人が多いってことなんじゃないかなあと私は思うんですが、実際には、振幅幅が似たような人が多数派として存在する。そしてその多数派は「感動病」で耐性がついて、一種の「感動ジャンキー」と化している。それが昨今の状況の気持ち悪さではないかと思います。
あ、話広げた私です。それがさらに広がって楽しいなと。
小泉文夫さんという音楽学者さんが、歌う時にもー自然にコーラスになっちまう欧米人と、もー自然にユニゾンしちまう日本人について書いて、個と集団に関する生理的レベルの認知差について述べられて、ただし、それはいい悪いの問題ではないとおっしゃってたのを思い出しました。いい悪いじゃない、ただ、違うのだと。
欧米のブログについては、「個」対「公」or「権威」という対立構図がもはや無意識刷り込みになってるあっちと、全然違うこっちではやはり温度差があるのは否めないと思いますが、実際に向こうでブログやってる連れによると、それはネットというのものに対する権力側、行政側の意識の違いの方が大きいのではないかということです。私もそう思います。
確かに今の日本のマスコミは未だ、「啓蒙」=上からの下への知識の垂れ流しという意識が捨てられず、だからこそ、ネットに関心が集まるのだと思います。ですが、↑に書いた通り、日本のマスコミがどれだけインタラクティブを弁えているか疑問で、上の方にすれば客が集まるという期待であり、ネットに出入りなさっているジャーナリストの方には、汚い言い方をすれば、ルサンチマン色が強い方もお見受けします。じゃあ、アマのブロガーはどうかと言えば、天声人語やってたり十字軍やってたりと、似たようなもんだよなあとも正直思うんですよ。ブログという非常にささやかもんでも、お立ち台を得てしまうと、いきなりマスコミの悪しき部分を踏襲しちゃう、人によっては錯覚しがちなんですよね、どうも。
といって、おっしゃてることに反論するつもりは全然なく、個が情報を発信できることに希望は持ってるけど、過度な期待は持つまいってとこです。過度な期待は幻想に繋がり、幻想的期待は「よかれよかれの善意」の名を借りた抑圧に繋がりますから。
これはすべて、自戒をこめてのことです。こうなったらこれからは悪意のみで書こうかなあ(藁)。
「にんげん」ドキュメント、見てみます。演出を抑えるというか、伝える側が寡黙になる決心をした時、NHKは伝統的にいい仕事しますね。饒舌で成功したのは「メタルカラーの時代」かな、「電子立国ニッポン」とか。
★Kちゃん
そう、わざわざTV見ないでも感動は一杯あるよね。そいで、押しつけられた「愛と情熱」くらい、鬱陶しいものはないなあと。それより私は極上の新茶飲んで、これが私の手に入るこれ黙って作り続けてる人にカンドーしてる方がずっと気持ちいいな。
★るきさん
ああ、そうだね。感動って時としてすごく「イタイ」、身を切られるように痛い。でも、今もてはやされてる感動ってそういう痛みは一切伴わないカンドーで、涙流した後は忘れられる。だから安いんだよ。
ええっとね。zaziesさんがプロの立場でおっしゃった飾り=粉飾っての考えてみまして。それってね、素材「本来の」甘みを活かすための火加減とか隠し味とか盛りつけとかなわけですよね、本来の「銭を取る」プロの技、本来のプロの付ける飾りってのは。んで、プロならば、「切り口」だけで勝負もできるわけです。
そして、今の自称プロがやってる飾りってのは、本来の甘みもへったくれもなく、そこに砂糖やら人口甘味料やら、どころか素材も表示とは違うモノ使って「甘けりゃいいんだろ甘けりゃ」で出してくる、そういうものの感じがするんですが、違うかな?
http://elmundo.cocolog-nifty.com/elmundo/
NHKの下請けのお方もさすがにご立腹のようで・・・。
私も、自分のHPで作品を公開いたしておりますが、
やはりなんだかんだいっても、「用意はした」というところでとめております。
押し付けって、いやなんですよねぇ。
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http://left13.jp
でもこの回の後から明らかに演出が「泣かせ」にシフトしてしまった。
なんでこの回が泣けたのか、まるでわかっていないNHK。
プロX、いつの間にか見るのをやめてしまったなあ。
あとプロX本編はつまらなくても、エピローグで流れる後日譚はいつも好き。
大仕事が終わっても人生は続くんじゃ、って日常に戻っていく感じがたまらない。
すっかりWeb出不精になってしまい、Blogなのに、自分トコで
引きこもってる状態・・・。
ネタが遅いのは、コッチでした(笑)
なんてーか、フィクションに「感動」出来ても、事実(ノンフィクション)を
ねじ曲げ、ねじ伏せてまでして作られた「遺伝子組み換え感動話」は
イタダケマセン。
その気になったら、その辺の「酔ったおっさんが管巻く姿」ででも、
感動することがあります。TVに作ってもらわんだかて。
こないだ電気屋の店頭で見た「8時だよ!全員集合」のDVD、感動しましたよ。当時は低俗番組だなんて親やPTAから叩かれてたはずですが(笑)
論旨がずれてませんか?
「子供をいじめて感動を作る『はじめてのおつかい』」について、ふと思い出しましたが、『世界丸見え』で日本の人気番組をいくつか選んでアメリカ人(ハリウッドの映画スタッフだった気がします)に見せたところ、『初めての~』は「あんな小さな子供にひどすぎる」「日本は安全なのかもしれないが、アメリカでは考えられない」とめちゃくちゃ不評でした。(ちなみに一番人気は『仮装大賞』でした
当時はTVなんてほとんど見ていなかったので『はじめての~』はその時になって知りましたが、確かに一生懸命頑張る子供に難題を押し付けて、泣いても放っておいて、その姿を見世物にしているのはどこかおかしい気がしました。
感動することが悪いとはもちろん誰も言いませんが、感動したがるのはおかしい気がします。
感動を売り物にして、感動を栽培、もしくは捏造する製作者に踊らされいる人が多い気がします。
それっておかしいです。人の不幸を見て喜ぶのと似ている気がして仕方ありません。
(感情論ばっかりですいません。
これ、見ていただけるかどうかわかんないですけど、こんな古いネタにコメントありがとうございます。
>感動したがるのはおかしい気がします。
私もそう思います。まして、感動させてもらおうとするのはとてもおかしい気がします。